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プロ野球1980年代の名選手

水野雄仁 危機感から習得したフォークが武器となった“阿波の金太郎”/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

江川に続く背番号31に


巨人・水野雄仁


「このままではプロでやっていけないと、フォークを身につけようと思った。最初は、うまく挟めなかったので、球をフォークの握りで挟み、バンドで縛ったりしましたね」

 1982年の夏、翌83年の春と、徳島の池田高は史上4校目の甲子園夏春連覇。82年の夏は外野手として2打席連続本塁打を放ち、83年の春はエースとして活躍して、ずんぐりした体格と重い速球、パワフルな打撃に陽性のキャラクターで“阿波の金太郎”と呼ばれて全国的な人気者になったのが水野雄仁だ。

 83年の夏は桑田真澄(のち巨人)、清原和博(のち西武ほか)らのいたPL学園高に敗れて3連覇はならず。大学へ進んで木のバットに慣れて野手に転向しようと考えていたというが、巨人にドラフト1位で指名されて、84年に入団。背番号は「雰囲気が似ている」と言われていた江川卓の30番に続く31番を与えられ、高卒1年目ながら7試合に登板するも、翌85年のキャンプで右肩を痛めてしまう。やや担ぎ投げで、右肩への負担は指摘されていたが、その不安は早々に現実のものとなってしまった。そして、手術。85年はリハビリで終わった。その間、危機感とともに習得に励んだのがフォークだった。

 これで投球の幅が広がる。翌86年に復帰すると、主に先発で8勝1セーブ。速球とフォークを組み合わせた投球術は、

「組み立てより、打者のタイミングが合っているかどうかを見ながら投げた」

 という。続く87年には、2位の中日からの3勝を含むキャリア唯一の2ケタ10勝を挙げてリーグ優勝に貢献した。西武との日本シリーズではセットアッパーとして好投を重ねたが、第6戦(西武)に先発すると、ぎっくり腰で途中降板。クロマティの緩慢な外野守備が目立った試合でもあり、結果的に、西武の日本一を許すことになった。

「第7戦は江川さんが先発する予定。この年で引退されたので、僕が江川さんの“最終登板”を消したことになりますね(笑)」

 その翌88年には球宴にも出場。第1戦(西宮)では2回1失点だったが、思わぬところで出番が回ってくる。東京ドームでの初めての開催となった第3戦は延長戦に突入、野手を使い果たした延長12回裏、無死一、三塁の場面で、代打として起用されると、高校時代からの自慢のバットで牛島和彦(ロッテ)からサヨナラ犠飛。優秀選手賞を獲得した。

「フォークなら終わりでしたけど、ストレートで来てくれました(笑)」

90年代はリリーフとして


 右ヒザに体重を乗せ、左足を着地させた後、しっかりと体重を移動させて投げることを心がけた。これによって、打者を見る“間”も生まれる。もともと右肩が下がる傾向があるため、肩のバランスとテークバックの高さには気をつけたという。

 継投策を駆使した王貞治監督が88年オフに解任されると、翌89年に藤田元司監督が復帰して先発完投を重視する方針に転換。オフにはリリーバーの鹿取義隆が放出され、90年からはリリーフに回る。リリーフでは、ほぼ速球とフォークの2種類のみで投球を組み立てた。90年は2勝11セーブ、防御率1.97、セットアッパーとしての起用が増えた翌91年は5勝3セーブで防御率2.15。だが、今度は右ヒジが悲鳴を上げる。

 92年は一軍登板なし。93年に復帰して43試合に投げまくったが、故障との闘いは終わらなかった。長嶋茂雄監督の“メークドラマ”が完結した96年10月6日の中日戦(ナゴヤ)が公式戦での最後の登板に。オリックスとの日本シリーズでは3連投もあったが、オフに構想外となった。

「現役生活晩年は、毎年、投手がFAで補強され、巨人の資金力との戦い(笑)。最後は、はじき出された感じでしたね」

 突然の引退に不完全燃焼を感じ、テレビの取材を受けながらメジャー挑戦。マイナー契約でのキャンプ招待オファーにとどまったが、

「テレビは後から乗ってきた。本気でした」

 98年にあらためて現役を引退した。

写真=BBM
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