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プロ野球1980年代の名選手

福良淳一 福本、イチローに続く二番を打った職人/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

首位打者も争った阪急時代



 阪急が最後の優勝を飾った1984年。その秋のドラフトで、最後に指名されたのが福良淳一だ。阪急は89年からオリックスとなり、2004年の球界再編を経て現在に至るが、ヘッドコーチを務めていた15年シーズン途中から監督代行として指揮を執ったのを皮切りに、18年まで監督としてチームを率いるなど、オリックスの歴史に欠かせない存在となっていった。阪急とオリックスの歴史を振り返るとき、84年のドラフトは、ある運命の分かれ道だったことは間違いないだろう。

 大分鉄道局からドラフト6位で阪急へ。二塁守備の名手として知られるが、

「アマ時代は、守備はヘタクソだった」

 と振り返る。それだけに、阪急では守備を重点的に特訓した。師匠は黄金時代に名遊撃手として鳴らした大橋穣コーチ。捕球体勢やゴロのさばき方といった基本から指導され、のちの礎を作っていく。そして早くもプロ1年目、85年4月23日の日本ハム戦(西宮)で三塁手として一軍デビュー。5月13日の南海戦(西宮)で初安打を放つと、15日の近鉄戦(西宮)では「九番・二塁」で初の先発出場、その後は二塁の守備固めや代走が多くなったが、最終的には37試合に出場した。

 正二塁手となったのが翌86年。82年オフにマルカーノを放出して以来、二塁手を固定しきれずにいた阪急だったが、その座はオリックスに至るまでの長きにわたって動くことはなかった。打順は九番がメーン。この86年は、のちの堅守巧打というイメージとは少し違う。リーグ7位の打率.309に加え、自己最多の12本塁打と長打力も発揮。自己最多の15死球など、いぶし銀の名バイプレーヤーというよりは、勢いのいい若い勇者といった印象を残す数字だ。

 翌87年に二遊間を組む弓岡敬二郎に代わって二番打者が多くなると、徐々に犠打が増えていく。守備位置は二塁のみとなり、2年連続リーグ最多死球など、過渡期が始まったシーズンといえそうだ。

 阪急ラストイヤーとなった88年は、一般的にいえばキャリアハイといえるシーズンだ。役割は二番のままだったが、福本豊が出場機会を減らし、ウイリアムズの後を打つようになる。だが、そのウイリアムズが機能しなかったことで、必然的に“攻撃型の二番打者”に。6月終了時点でロッテ高沢秀昭、チームメートの松永浩美を抑えて首位打者争いのトップに立つなど全方向へ安打を量産、最終的にタイトルは逃したものの、リーグ3位、自己最高の打率.320をマークして、初のベストナインに輝いた。

 7月30日の西武戦(西宮)ではサヨナラ満塁本塁打を放って、

「サヨナラ弾は夢だった。もう思い残すことはない」

オリックス時代に犠打が急増


 夢の続きがあった、というよりは、その夢とともに、確かにキャリアにはピリオドが打たれ、似て非なる新たなキャリアが始まった、というべきか。阪急がオリックスとなると、犠打が急増していく。松永の後を打ったオリックス元年の89年に29犠打。“ザ・二番セカンド”といったスタイルを完成させていった。

 2度目の全試合出場となった93年には初のリーグ最多31犠打、イチローがプロ野球で初めてシーズン200安打を超えた94年にも二番打者として2年連続リーグ最多の33犠打に加え、リーグ6位の打率.301もマーク。この間、93年4月23日のダイエー戦(GS神戸)から94年7月31日の西武戦(西武)まで、二塁手として836連続守備機会無失策のプロ野球記録も樹立している。

 翌95年がオリックス初優勝、続く96年がリーグ連覇、初の日本一で、現役引退は97年。阪急ラストVの後を受けて、オリックス初Vまで、ほぼ同じ役割で、ひと目で分からないようなマイナーチェンジを繰り返しながら、チームを支え続けた男だ。阪急では黄金時代を引っ張った福本に続く二番打者、オリックスでは現在もマリナーズでプレーするイチローに続く二番打者を務め、阪急とオリックスの“歴史の証人”といった雰囲気も漂う。

写真=BBM
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