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背番号物語2019

【背番号物語2019】「永久欠番」初めて監督のみの背番号が永久欠番に

 

背番号は、ある選手が引退しても、またある選手に受け継がれていく。2019年も新たな後継者が誕生した。その歴史を週刊ベースボールONLINEで振り返っていく。

追悼から始まった永久欠番



 2018年3月。13年に楽天を初優勝、日本一へ導き、18年1月に亡くなった星野仙一監督の「77」が永久欠番となった。監督として阪神を26年ぶりリーグ優勝、2リーグ制となって初の日本一へと導いた吉田義男が退任した際に永久欠番となったのは現役時代の「23」。巨人王貞治は現役時代の「1」のまま監督として指揮を執り、やはり退任した際に永久欠番となったが、そこで称えられたのは監督として以上に、通算868本塁打を残した現役時代と考えるのが自然だろう。

 監督のみの背番号が永久欠番となるのは楽天の星野監督が初めてで、その功績に対する敬意だけでなく、追悼の意も込められたもの。プロ野球における永久欠番の歴史が幕を開けたのも、追悼の意からだった。

「ひとえに黒沢(黒沢俊夫。巨人)の人柄。誰からも慕われた男で、それを球団も分かっていた」とはチームメートだった千葉茂の弁だ。黒沢は1947年シーズン中に急死。「俺が死んだらユニフォームを着せて葬ってくれ」と遺言した。そして、およそ半月後に黒沢の「4」は永久欠番となり、これを機に戦死した沢村栄治の栄光も顧みられることとなる。

 その後は、選手の永久欠番は実績を称えた制定ばかりとなり、12年に西武稲尾和久の「24」が永久欠番となったが、親会社の違うチームの背番号が永久欠番になるのは異例。選手の死後に永久欠番となったのは黒沢と沢村に続く3例目だ。

 ちなみに、選手や監督ではない永久欠番としては、球団創設とともに「10」をファンの背番号として永久欠番とした楽天に続き、日本ハム初代オーナーの大社義規が09年に殿堂入りした際、Vイヤーの81年に着用していたユニフォームの「100」が永久欠番になっている。

【選手、監督の永久欠番一覧】
1947年7月9日 巨人「4」黒沢俊夫

1947年7月9日 巨人「14」沢村栄治

1958年11月30日 阪神「10」藤村富美男

1959年3月15日 中日「15」西沢道夫

1960年3月20日 中日「10」服部受弘

1965年1月18日 巨人「16」川上哲治

1970年4月2日 巨人「34」金田正一

1972年11月2日 阪神「11」村山実

1974年11月21日 巨人「3」長嶋茂雄

1986年10月27日 広島「8」山本浩二

1987年9月21日 広島「3」衣笠祥雄

1987年10月13日 阪神「23」吉田義男

1989年3月16日 巨人「1」王貞治

2012年5月1日 西武「24」稲尾和久(西鉄)

2016年11月1日 広島「15」黒田博樹

2018年3月26日 楽天「77」星野仙一監督

“失効”した永久欠番も


近鉄・鈴木啓示


 選手としての永久欠番はメジャーから“男気”で広島へ復帰、25年ぶりのリーグ優勝に貢献して引退した黒田博樹の「15」が最新。広島では昭和の黄金時代を引っ張った山本浩二の「8」、衣笠祥雄の「3」に続く3例目だ。

 また、巨人では川上哲治の「16」や長嶋茂雄の「3」、王の「1」、阪神では藤村富美男の「10」や村山実の「11」など、永久欠番となるのはチームひと筋の選手がほとんど。金田正一の「34」が巨人で永久欠番になったのは例外と言える。逆に、背番号が選手のトレードマークとなっていても、チームひと筋でなければ永久欠番にはなりにくく、張本勲の「10」、野村克也の「19」などは好例だろう。中日の西沢道夫も一時期チームを離れているが、ほとんどを中日で過ごしており、最後に着けた「15」が永久欠番となった。

 かつて永久欠番だったものが“失効”したのは鈴木啓示の「1」。近鉄がオリックスと合併して消滅したためで、阪急時代から永久欠番がなかったオリックスでは現在も永久欠番はない。

写真=BBM
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