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プロ野球1980年代の名選手

仁科時成 投球術を駆使した“川崎”のサブマリン/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

絶妙な投球術で80年の前期MVPに



 1980年代のパ・リーグでは、何人もの個性的なサブマリンが躍動していたことは、この連載でも折々に触れてきた。サブマリンたちが元気だったのは、この当時に限らず、長いプロ野球の歴史においても、阪急がトップではないか。ただ、その全盛期は70年代、いわゆる黄金時代と呼ばれたころだ。

 80年代に入ると、そんな阪急と五分に渡り合い、あるいは勢いで勝っていたのはロッテだろう。そのロッテは80年に前期優勝。落合博満はブレーク前だったが、リー、レオンの兄弟に“ミスター・ロッテ”有藤道世、そして通算3000安打に到達する移籍1年目の張本勲ら強力打線の存在も大きかったが、投手陣の立役者は前期MVPに輝き、シーズン通算で17勝を挙げた仁科時成になるだろう。独特な変化を見せる数種類のシンカーと、絶妙な投球術を駆使したサブマリンだ。

「打者との駆け引きが投球のおもしろさでもあり、難しさでもある」

 と語る。ロッテには81年シーズン途中に同じくサブマリンの深沢恵雄も加入、ともに打者の内角を厳しく突いたが、“超低空”からの浮き上がる速球を武器にした深沢とは違い、100キロ以下の変化球を追求、打者の状態を見極めて球を長く持ったり短く持ったり離す位置を工夫し、時にはアンダースローの投球フォームで始動しながら、途中からサイドスロー投げることもあった。

 山陽高3年の12月24日、すでに社会人の大倉工業への就職が決まっており、トレーニングでバーベルを上げたときに腰痛を発症。その後、1年半はユニフォームを着ることもできず、復帰後にオーバースローからサイドスローに。腕は次第に下がり、アンダースローへと近づいていく。社会人7年目となった76年、すでに25歳となっており、

「今年、プロから声がかからなかったら、もう野球をやめよう」

 と思っていたところ、ドラフトでロッテから3位で指名され、77年に入団。まだ当時は速球にこだわりがあったが、

村田兆治さんのストレートを見て、投球術を磨くことに決めた」

「あと1人」から2度もノーノーを逃す


 1年目から即戦力となり、2年目の78年から2年連続9勝。迎えた80年は握りを少し変えた落ちる球を習得したことも功を奏して開幕から絶好調、開幕第2戦となった4月6日の阪急戦(西宮)に完投してロッテのシーズン初白星を挙げると、自身2試合目の登板で、本拠地開幕戦でもある12日の日本ハム戦(川崎)に完封、その勢いのまま6月10日の日本ハム戦(県営宮城)で早くも10勝に到達した。

 その後は急失速してシーズン通算では17勝にとどまったが、前期優勝へ向けてのスタートダッシュに貢献。以降2ケタ勝利5度の活躍で沈んでいくロッテを支え続けていったが、同時にシーズン最多与死球も5度という“与死球王”でもあった。ロッテが最下位に沈んだラストイヤーの88年は1勝にとどまったが、31試合に登板している。

 21世紀に入って西武の西口文也が“更新”したが、9回二死まで無安打に抑えながらノーヒットノーランを逃すこと2度を数えたのは、このサブマリンがプロ野球で初めてだった。まずは83年、左肩の打撲もあって下半身を強化して復活を遂げた8月20日の近鉄戦(川崎)で、コーナーにスライダー、シンカーを決める完璧な投球を展開、出塁は2失策と敬遠四球のみに抑えていたが、9回表二死、シンカーが落ちず、真ん中へ入った99球目を仲根政裕が右前打。続いて翌84年にも5月29日の近鉄戦(日生)、9回裏二死から平野光泰が115球目を左前打。

「数センチのミス。これが勝負の厳しさなんですかね」

 リーグ最多の5完封を含む自己最多の17勝を挙げた80年9月21日の阪急戦(平和台)では7回表にマルカーノから左前打を浴びたのみで完封したこともあり、1安打の完封勝利ということでは3度を数える。

写真=BBM
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