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平成助っ人賛歌

キップ・グロス(日本ハム) 野茂の渡米後、パを代表するエースとなった“球界のトム・クルーズ”/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

2年連続で最多勝を獲得


日の丸入りの「闘魂」ハチマキがトレードマークだった


 テレビ業界にとって、1989年(平成元年)は重要な年だった。

『とんねるずみなさんのおかげです』や『ねるとん紅鯨団』で若きとんねるずが圧倒的な視聴率を獲得する中、『オレたちひょうきん族』は最終回を迎え、深夜枠でひっそりと『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』が始まった。前年秋にはダウンタウンとウッチャンナンチャンが共演した伝説的番組『夢で逢えたら』も放送開始。その後の平成のお笑い界を盛り上げる若い力が続々と台頭していた時期である。

 そしてプロ野球界のターニング・ポイントは、1995年の野茂英雄のメジャー移籍だ。ドジャースに入団した野茂は1年目から13勝を挙げ、最多奪三振と新人王を獲得。そこから日本人選手にとっても大リーグが夢ではなく、現実的な目標になった。

 そこでふと疑問に思ったのが、そのルーキーイヤーから4年連続最多勝利&最多奪三振の野茂が渡米した直後のパ・リーグで、リーグを代表するエースとして活躍したのは誰だったのだろうか? 当時の成績を確認すると、ひとりの外国人投手が95年、96年と2年連続でパ・リーグ最多勝利のタイトルを獲得している。

 日本ハムキップ・グロスである。94年途中に29歳で来日したグロスは1年目こそ6勝12敗と大きく負け越すも、95年に16勝、96年に17勝を記録。しかも、95年は最多勝と同時にリーグ最多敗戦(13敗)、15完投、231投球回も最多とすさまじい投げっぷりだった。なんだかよく分からない日の丸入りの「闘魂」ハチマキを巻いた風貌はトム・クルーズ似と話題になり、ミスター完投、舶来の大和魂と称賛されたタフネス投手。

 オリックス時代のイチローが表紙を飾る『週刊ベースボール』95年9月4日号で「助っ人エースのジャパニーズ・ドリーム」という特集記事が掲載されているが、見出しは「高度経済成長期のサラリーマンさながらの“粘投”と協調精神」。ちぎっては投げ、ちぎっては投げ、「中4日の方が調子がいいんだ」と首脳陣を喜ばせる明るい性格の助っ人は、打線の援護に恵まれず敗戦投手になっても試合後に怒りを爆発させたことはほとんどなく、野手からの信頼も厚い。メジャー時代はわずか7勝。満足にチャンスをもらえなかったから、日本でこんなに投げられるだけでうれしくてたまらない。

 夏場以降にさらに調子を上げ、8月にはリーグタイ記録の3試合連続完封で月間MVPを獲得。タフさだけでなく、最多無四球(4)に最多死球(12)と繊細さとハートの強さも併せ持つエースは、外国人投手としてはバッキー(阪神)以来31年ぶり、パ助っ人投手では初の最多勝に輝くわけだ。

日米新時代到来の象徴


95年にはリーグ最多の15完投をマークするなどタフな右腕だった


 引退試合の原辰徳が表紙を飾る週べ95年10月23日号にはマーティー・キーナートが聞き手を務める最多勝記念インタビューが掲載。「野茂と僕は異国で身に付けた“スマートピッチ”で成功した!」と日米新時代到来の象徴として取り上げられている。

 英語でのインタビューに「球場ではウォークマンでラジオのFENを聴いていると一石二鳥さ。コーチには話しかけられないし、英語も聴けるし、ネッ」なんて本音もポロリ。グロスの古巣ドジャースで活躍する野茂について聞かれると「活躍は僕もうれしい。ただ、ドジャースが勝つのはあまりうれしくないんだ。だって、僕を解雇したチームだからね!」なんつって自分をフッた相手に対する複雑な思いを語る。

 当時2年連続MVPの22歳イチローには「天才みたいだね。だけど、まだメジャーでは活躍できない」とその才能を認めつつも、足を生かした逆方向への打球が少ないし、ライト方向へのバッティングが多いからメジャーでは極端なシフトを敷かれることを指摘。同時に「日本シリーズでヤクルトの投手陣を打てないんじゃないかと思っている」という不気味な予言もしている(実際にヤクルトバッテリーに打率.263に抑え込まれオリックスも1勝4敗で敗戦)。

「千葉ロッテの河本(育之)、彼は今すぐにでもメジャーで50セーブできる。野茂だけじゃない。日本のトップ5の投手は全部OKだ。ロッテの伊良部(秀輝)、あとホークスの工藤(公康)もすごいね」

西武の佐々木(誠)、ホークスの小久保(裕紀)。彼らは素晴らしい。我がチームの田中(幸雄)もパワーがあるし、メジャーで15本はホームランを打てる選手だ」

 95年のパ・リーグ選手をこう評価するグロス。意外なのは、日本人以上に根性があるとマスコミで書かれていた男が、「日本のスプリング・トレーニングはおかしいと思う。選手が個人のペースで自己管理をして、開幕に備えるべき」とか「日本の選手はオーバーワークしすぎだ。あんなに練習していたらメジャーの日程はこなせないよ」なんてチーム練習の多さを嘆く姿だ。

記録にも記憶にも残る右腕


95年、上田利治監督(左)に勝利を労われて


 3年目の96年はチームが34年ぶりに首位折り返しも、夏場にチームは急失速して、9月10日に上田利治監督が家庭の事情で突然休養を発表。オリックスに逆転され惜しくも2位に終わったが、グロスは前半9勝、後半8勝とシーズンを通して安定した投球を続け、17勝9敗、防御率3.62で2年連続の最多勝に輝いた。

 翌97年も、6月29日のロッテ戦(東京ドーム)で愛妻の出産に立ち会うため5回でマウンドを降りるアメリカンな一面も見せたかと思えば、夏には酔っ払いに絡まれ右脇腹ろっ骨を亀裂骨折して全治3〜4週間の診断を受けるも、首脳陣には隠し通しローテを守り続け、両リーグ最多の233.1回に投げて13勝を挙げた。

 日本でエリック・ヒルマン(ロッテ)から教わったチェンジアップの握りがハマり、投球の幅も広がった。直球は140キロ前後の球速で、手元で変化するムービング・ファストボールにシンカーやスライダーを駆使する軟投派右腕。もう少し若かったら、ピッチングスタイルは大きく異なるが近年のマイルズ・マイコラス(巨人→カージナルス)のように、逆輸入投手としてメジャーの舞台でも活躍していたかもしれない。

 なおイチローが97年に209打席連続無三振の日本記録を達成した相手投手は背番号60のグロスで、「投手イチロー」登板が物議を醸した96年7月21日オールスター第2戦、グラウンドキーパーの服を借りてグラウンド整備のパフォーマンスをしたのもこの男だった。日本ハム在籍5年で通算55勝、記録にも記憶にも残る平成球界を代表する助っ人と言えるだろう。いまだにパ・リーグで2年連続最多勝を獲得した外国人投手は、キップ・グロスただひとりである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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