週刊ベースボールONLINE

プロ野球1980年代の名選手

高橋一三 日本ハムの“左腕王国”を支えたV9の左腕エース/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

V9の左腕エースが日本ハムで復活



「遅い球で投げて、最後にインコースへピッと(速い球を)投げると結構、見逃しをするんですよ。せいぜい1打席に1球ですけどね」

 遅い球で投球を組み立てて、ときどき速い球を投げる緩急の“逆転の発想”が復活を呼んだ。プロ17年目となる1981年に5年ぶり7度目の2ケタ14勝を挙げて、日本ハムをリーグ初優勝へと導いた高橋一三だ。

 ただ、豪快なフォームからの150キロを超える快速球とスクリューボールを駆使した巨人V9の左腕エースという印象のほうが強烈だろう。北川工高からV9の幕が開けた65年に巨人へ入団。高卒新人ながら4月15日の阪神戦(甲子園)で早くもデビューしたが、5月11日の広島戦(金沢兼六園)で2者連続本塁打を浴び、その後は二軍生活となる。そこで、兼任コーチだった藤田元司から「右打者の外角にシュートを投げてみろ」と言われ、いろいろ工夫しているうちに、落ちるシュートを習得した。当時はスクリューという言葉は日本球界に広まっておらず、71年の日米野球で、米球界の関係者に言われて分かったという。

 そして、翌66年から一軍に定着。フォークも習得した69年に15連勝を含む22勝で最多勝と沢村賞、自己最多の23勝を挙げた73年にも2度目の沢村賞に。ペナントレース、日本シリーズ合わせて8度の胴上げ投手にもなった。また、

「僕のメシの種だった」

 と語るように、特にライバルの阪神戦では通算34勝17敗と本領を発揮。最多勝の69年には無傷の7連勝、V9を決めた73年には最終戦の直接対決で完封勝利を飾っている。

「接戦が多かったし、村山(村山実)さん、江夏(江夏豊)、バッキーと、いい投手と投げ合うことが多かった。阪神戦に投げることで、投球術を磨き、鍛えられていったんだと思います」

 だが、V10の夢が潰えた74年は2勝11敗と大きく負け越し、急失速。最下位に終わった75年には6勝を挙げて復活の兆しを見せたが、オフに富田勝とともに張本勲とのトレードで日本ハムへ移籍する。

 移籍1年目の76年こそ10勝と結果を残したものの、その後は腰痛もあって低迷。ふたたび復活の兆しを見せ始めたのは、80年代に入ってからだった。日本ハム5年目、プロ16年目となる80年に9勝4セーブ。3年ぶりに規定投球回にも到達して、リーグ5位の防御率3.56をマークしている。

“左腕王国”の支柱として


 81年は日本ハムとなって8年目。エースの高橋直樹を放出してまで、クローザーの江夏豊を獲得するなど、就任6年目の大沢啓二監督が勝負をかけたシーズンだった。前期はロッテと首位を争うも、“日ロ決戦”と言われた5月の直接対決で負け越し、その後は失速して4位。だが、後期は救援を前に首位を奪取、一度は2位に落ちたものの、8月15日からは首位を譲らず、2年連続の後期制覇となった。

 最優秀防御率に輝いた貴重な右腕の岡部憲章、無傷の15連勝で不敗神話を築いた間柴茂有の一方で、80年に先発投手のタイトルを総ナメにした木田勇は勝ち星が半減するなど苦しい投球に。そんな“左腕王国”を支えたのは、ブルペンに控える江夏もさることながら、巨人V9で栄光を知り尽くしたプロ17年目のベテラン左腕だった。のちに木田が振り返っている。

「一三さんに『1年目に勝ち過ぎや。徐々に勝利数を増やしていけば、とんでもない給料になっていたぞ』と言われました。一三さんには、かわいがってもらいました」

 ロッテとのプレーオフでは第1戦に先発して村田兆治との投手戦を制し、古巣の巨人との日本シリーズでも2試合に登板した。82年は7勝。だが、6勝1セーブを残し、「まだまだやれる」と言われていた83年オフ、

「投球に対する根気がなくなった」

 と、あっさりユニフォームを脱いだ。現役生活19年。巨人と日本ハムで10度の頂点を経験したが、個人記録にこだわりがなく、通算2000奪三振に、あと3と迫っていた。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング