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プロ野球1980年代の名選手

川端順 “バターボール”で85年新人王に輝いたコイの右腕/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

パームボールの変形



「川端だから“バターボール”じゃ」

 1980年代の中盤から広島で正捕手を務めた達川光男のネーミングは実に安直(?)だったが、85年の新人王に輝いた川端順が投じた変化球の球筋は複雑だった。鳴門高から法大、東芝を経て、ドラフト1位で84年に広島へ入団。1年目から15試合に登板して1勝1セーブも、社会人を経た新人としては、また“投手王国”を擁して優勝、日本一へと駆け上がった広島にあっては、伸び悩んだといえるかもしれない。実際、新人王の権利を残して、翌85年を迎えている。

 このとき、取り組んだのがフォームの改良と変化球の研究だ。まず、クロスステップをやめて、左足をオープン気味に開くように。直球のスピードが一軍で投げる投手としては平均的だったため、左腕を使うことを意識して、球速アップも狙った。また、エースの北別府学からアドバイスを受けて内角へのシュートを増やす一方、チームの先輩で84年に最優秀防御率を獲得した小林誠二のパームボールを観察。巨人のカムストックが投げるスクリューボールも参考に、編み出したのが“バターボール”(“バタボール”とも)だった。

 握りは明らかにされていないが、パームボールの変形で、独特の軌道で沈み込む。プロ2年目の大ブレークを呼び込んだ魔球だ。全体的にバランスが良く、変化球を投げるのに向いているフォームが完成したことも魔球の威力を支えたと言える。いったんタメを作ってから、左腕を大きく振り上げ、その反動を利用して右腕を引き出すのが特徴だった。

 85年5月6日の大洋戦(広島市民)に完投してシーズン初勝利。その後は主に先発が崩れた後のロングリリーフで勝ち星を稼いだと思えば、先発のマウンドに戻って完投勝利を挙げるなど、ありとあらゆる場面で投げまくった。前半戦は巨人の斎藤雅樹と防御率のトップを争う。終盤に中日小松辰雄が驚異的な追い上げを見せて最優秀防御率はならなかったが、9月25日の大洋戦(横浜)でプロ初完封を記録、その後も1完封を含む4連勝など、失速したわけではなかった。

 最終的には11勝7セーブ、リーグ2位の防御率2.72。そして、ヤクルト広沢克己や法大の後輩でもある阪神の木戸克彦を抑えて新人王に。“投手王国”は、さらに厚みを増した。

87年はリリーフのみで規定投球回に到達


 86年は故障に苦しんでいた津田恒実が完全復活を果たしたシーズン。主に津田へとつなぐセットアッパーとして防御率2.41の安定感でチームのリーグ優勝を支えた。西武との日本シリーズでも第1戦(広島市民)で8回表からリリーフ。シーズン終盤は右ヒジ痛で登板がなかったこともあり、西武の“偵察隊”に見られていない“秘密兵器”でもあり、“バターボール”が西武の打線を翻弄する。試合は9回裏に広島が同点に追いついたことで延長戦に突入。そのまま14回まで無失点で投げ抜いたことで、この日本シリーズは史上初の第8戦にもつれこむことになった。

 すべてリリーフのマウンドで57試合に投げまくった翌87年は規定投球回にも到達して、2度目のリーグ2位となる防御率2.42に、2度目の2ケタ10勝でリーグトップの勝率.833。印象的だったのは旋風を巻き起こしたヤクルトのホーナーとの対決で、多くの投手が対戦を避ける中、1本塁打は許したものの、9打数1安打3三振と抑え込んでいる。

 その翌88年からは規定投球回到達はなかったが、リリーバーとして安定感を維持。89年からは3年連続で防御率2点台と結果を残している。「津田のために」とチームが結束したVイヤーの91年も28試合の登板で5勝1セーブ、防御率2.36。だが、翌92年に3勝6敗と負け越し、防御率も4点台で終わると、オフに球団からコーチ就任を要請される。まだまだ働けるという思いはあったが、

「カープで現役生活を終わりたかったので」

 と現役を引退して、二軍の投手コーチに就任。その後はフロントに転じて、リーグ連覇を果たした2017年まで務めている。

写真=BBM
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