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プロ野球1980年代の名選手

木戸克彦 “猛虎フィーバー”85年の正捕手/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

規定打席未満ながら13本塁打


阪神・木戸克彦


 21年ぶりのリーグ優勝、2リーグ制となって初の日本一に輝いた1985年の阪神。特に打線は大爆発で、三番からのバース、掛布雅之岡田彰布のクリーンアップだけでなく、リードオフマンの真弓明信まで30本塁打を超えたが、この打線のすさまじさは、それだけではなかった。

 穴があるとすれば九番に入る投手のみ。六番の佐野仙好は勝負強く、二番や七番の北村照文平田勝男は粘り強かった。そんな打線で八番打者を務めたのが正捕手の木戸克彦だ。規定打席未満ながら13本塁打。ほとんど左方向への本塁打だったが、時には右方向にもシュアな打撃を見せ、特に“伝統の一戦”のライバルでもある巨人に強く、32打点のうち15打点を巨人から記録した。

 アマチュア時代からエリートだった。PL学園高では捕手で主将。のちに広島で代打の切り札として鳴らした西田真次(のち真二)とバッテリーを組んで、3年生の78年に夏の甲子園では準決勝、決勝で「神がかりの野球」と呼ばれた逆転勝利で全国制覇を果たした。西田とともに法大へ進むと、2年の秋から5季連続でベストナイン、東京六大学リーグ通算76試合で打率.307。ドラフト1位で地元の阪神から指名されて、同じく広島1位の西田とともに、83年に入団した。

 かつての正捕手で、主砲でもあった田淵幸一の背番号22を継承した1年目はプレッシャーもあって腰痛が悪化して戦線離脱。二軍生活が続き、一軍では8試合に出場に終わる。2年目も26試合のみだったが、オフに就任した吉田義男監督が正捕手に大抜擢。迎えた85年、先発投手陣が充実しているとは言えない阪神だったが、プロ3年目とは思えないリードと、二塁への安定感あるスローイングなどのサポートぶりで、ベテランから若手まで投手陣から信頼を集めていく。

 一方の打撃では、八番という下位の打順も思い切りの良さにつながる。クリーンアップの“バックスクリーン3連発”がリーグ優勝への起爆剤となったシーズンだったが、この八番打者にも“3連発”があった。6月15日の大洋戦(甲子園)では2回裏、5回裏、そして7回裏に、いずれも左翼席へ3打席連続本塁打。終盤こそ失速したが、6月までに9本塁打を放っている。

バッテリーの理想的な関係


 ストライクは、ストライクゾーンを通った球ではなく、空振りやファウルならストライク。ボールは安打にしにくい球であり、追い込んだらボール球を投げさせて空振りを奪うのが一番だと考えた。投手が投げたい球も考えて、それを察知するのが、バッテリーの理想的な関係。投手を勝たせるのが良い捕手、というのがリードの哲学だった。85年はダイヤモンド・グラブにも選ばれ、西武との日本シリーズでも全6試合に出場している。

 翌86年からは阪神の失速と比例するように打撃も失速。それでも88年には自己最多の121試合に出場するなど、正捕手の座は譲らなかった。だが、その翌89年には、巨人の原辰徳との本塁クロスプレーで左のかかとをはく離骨折しただけでなく、メガネが割れて顔面に刺さって、全治4週間の大ケガ。90年代は山田勝彦関川浩一に捕手の1番手を譲り、3人でローテーションを組むような体制となったが、リードの評価は変わらず高く、91年に入団した左腕の湯舟敏郎とは特に相性が良かった。湯舟が先発した92年6月14日の広島戦(甲子園)では、

「まだ俺はノーヒットノーランの球を受けたことがないから、お前、絶対に打たれるな」

 とファーム落ちの直前だった湯舟にハッパをかけ、ノーヒットノーランを達成させている。

 96年が選手としてのラストイヤーとなったが、その後も阪神ひと筋。解説者を挟みながらも、コーチやフロントとして阪神を支え続けている。なお、PL学園高時代の“威光”は引退後も健在。PL学園高の後輩で、巨人時代の清原和博が際どい球で投手に向かっていっても、この“大先輩”が出てくると、しぶしぶ矛を収める場面が見られた。

写真=BBM
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