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プロ野球1980年代の名選手

高野光 暗黒期のヤクルトで光った快速球右腕/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

新人ながら開幕投手を任されて



 ドラフト制度が始まって20年目の節目を迎える1984年。ヤクルトの開幕戦となった4月6日の大洋戦(横浜)で、先発のマウンドに立った、つまり、開幕投手を任されたのは、前年の秋に“いの一番”のドラフト1位で指名されて入団した新人の高野光だった。新人が開幕投手となったのは、この20年間で初めてのこと。つまり、ドラフトで入団した選手で初めてとなる新人の開幕投手だった。

 80年代のヤクルトは、成績では暗黒時代といってもいいが、特に後半は低迷しているチームとは思えない明るい雰囲気があったことは池山隆寛を紹介した際にも触れた。そんな雰囲気を呼び込んだのは、ドラフトでのクジ運だっただろう。

 82年秋のドラフトでは甲子園でアイドル的な人気を誇った荒木大輔を巨人とともに指名して、獲得に成功。この84年秋のドラフトでも3球団が競合した広沢克己、翌85年秋のドラフトでも同じく3球団が競合した伊東昭光を引き当て、そして87年秋には大洋との争奪戦となった長嶋一茂も獲得。学生野球のスター選手や実力派などキャラクターはさまざまだが、そんな顔ぶれにあって最多の4球団が競合したのが、この右腕だ。東海大では首都大学リーグで21連勝を含む23勝1敗。大洋、西武、阪急と競ったドラフトでヤクルトが交渉権を獲得すると、

「意中の球団でした。チームの力になりたい」

 と抱負を語る。キャンプでは長身から投げ下ろす150キロ近い快速球で首脳陣を喜ばせ、武上四郎監督も「将来のエースじゃない。すでに、その力がある」と絶賛、「彼は救世主。俺の代わりにタフマンのCMに出てもいい」と禅譲を示唆(?)するなど、上機嫌だった。

 開幕戦は4イニング3失点で勝ち負けなし。

「カーブが決まらないとみると、その後のストレートを狙われた。さすがプロはうまい」

 2敗の後、29日の阪神戦(神宮)でプロ初完封初勝利も、その後は打線の援護に恵まれないことも少なくなく、5連敗。6月までで1勝8敗と苦しい投球が続く。だが、7月に入ると救援のマウンドや谷間の先発で徐々に復調。8月は無傷の4勝1セーブ、9月にかけて5連勝と、前半戦がウソのような快進撃を見せて、2ケタ10勝でシーズンを終えた。新人王は広島小早川毅彦に譲ったが、

「大学と違って調整が難しかったですね。途中で2ケタ(勝利)はあきらめていました。ホッとしました」

86年に自己最多の12勝も……


 2年目の85年は故障もあって7勝。翌86年には途中までは最優秀防御率のタイトルをもうかがう安定感を見せて球宴にも初出場、最終的には自己最多の12勝を挙げたものの、続く87年は腰痛に苦しめられる。それでもシーズン終盤にはクローザーを任されて、7勝11セーブをマークした。

「短いイニングで集中できるから、自分には向いているかもしれないですね」

 と語ったが、ついにヒジが飛んだ。

 89年4月27日の巨人戦(神宮)で完投勝利も、試合後に違和感を覚えて、右ヒジ内側じん帯損傷が発覚。渡米して手術を受ける。そして、復帰には3年を要した。92年4月7日の中日戦(ナゴヤ)の先発として約3年ぶりとなる一軍のマウンドを踏むと、5イニング2/3で5失点と苦しい投球ではあったが、ヤクルト打線は果敢に援護し、内藤尚行も好リリーフ、1076日ぶりの勝利投手となる。お立ち台では号泣し、涙で何度も言葉が途切れた。

 最終的には7勝を挙げて優勝に貢献したが、終盤にヒジ痛が再発。その後も肩、足と故障が相次ぐ。一軍登板なしに終わった93年オフ、ついに戦力外通告。94年はダイエーで口ヒゲをたくわえて臨んだが、往年の快速球は取り戻せず、オフに現役を引退した。

「速球に関しては誰にも負けない」

 と若手時代から言い切っていた。だが、プロ初勝利のときには、すでに右肩の炎症を抱えての141球。伝家の宝刀は諸刃の剣でもあったのだろう。そして、そのスピードボールは、この右腕を象徴するかのようでもあった。

写真=BBM
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