1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 甲子園のアイドルが83年にヤクルトへ
「その時点ではプロに行かないと決めていましたが、その中でも1位で指名していただいたというのは野球をやっている人間にとっては名誉なことですし、うれしかったですね。交渉権を獲得したのはヤクルトでしたが、東京にいて、僕らが小学生のとき、男の子は野球帽をかぶって学校へ行くわけですが、ほぼ巨人でしたから。ヤクルトの帽子をかぶるということは、まずありえない(笑)」
その時点、とは、1982年秋のドラフト。1位で指名されたのは、早実高のエースとして甲子園に5季連続で出場してアイドル的な人気を集めて“大ちゃんフィーバー”を巻き起こした荒木大輔だ。甘いマスクもあって、高校時代からゲーム後のバスに女性ファンが殺到するのは当たり前の光景になっていたが、ヤクルト入団でヒートアップ。神宮球場へ入る際にはファンを避けるために球場とクラブハウスとをつなぐ地下トンネルを使い、そのトンネルは“荒木トンネル”と呼ばれた。
「1年目は第一線で働くというよりも力を蓄える時期だと思っていました」
と振り返るが、83年5月19日の阪神戦(神宮)で
武上四郎監督が“予告先発”。約4万7000人のファンが押し寄せた。巨人戦を除けばシーズン最高の集客となったというが、期待に応えて5回を3安打、無失点の好投。
尾花高夫の好リリーフもあって、初登板初先発を初勝利で飾った。だが、この83年は15試合に登板したものの、これが最後の勝ち星に。翌84年も22試合に登板したが5連敗。
「1、2年目は別に出られなくてもいい。3年目は一軍で出たい。敗戦処理でもいいから。それで4年目には開幕から一軍にいたい」
そう思っていたという。アイドル選手の宿命なのか、プロ2年目までは人気先行だったことは確かだろう。だが、加熱するフィーバーとは対照的に、この若き右腕は冷静だった。
「敗戦処理でいい」
3年目の後半には先発ローテーションに定着して6勝。「開幕から一軍」の4年目、86年には開幕投手を任されて、最終的には8勝2セーブをマークした。
「3年目に、二軍バッテリーコーチだった根来(広光)さん、金田(正一)さんのキャッチャーを務めた方ですけど、内角球の使い方を教わって。(二軍の)試合で1試合に何本か、バットを折ったことがあったんです。140キロ出るか出ないかのボールで。『あれ?』と思ったんです。そのときに分かったんですね、インサイドの使い方が」
90年代にヒジ痛から奇跡の復活
「87年から関根(潤三)さんが監督になったんですが、『絶対に2ケタ勝たせてやる』と言ってくれて。防御率は5点台と、ほめられた数字ではないですが……(笑)」
2年連続で開幕投手を務めて、低迷するヤクルトにあって勝ち越し。自己最多の10勝を挙げた。翌88年にも4勝を挙げたが、右ヒジ痛を発症。以降3度の手術を受け、さらには椎間板ヘルニアにも見舞われて、投げられなかった期間は4年を超えた。復帰は92年、優勝争いの真っ只中の、9月24日の
広島戦(神宮)だった。5回にブルペンに入ると、球場は異様な雰囲気に包まれる。7回表にリリーフで登板すると、
江藤智に渾身の6球。フルカウントから「生涯最大の落差」とも言われるフォークで空振り三振に仕留めた。
首位を走る阪神を猛追していた10月3日の
中日戦(神宮)では先発として7イニングで被安打2、無失点の好投で勝利投手に。直接対決となった10日の阪神戦(甲子園)にも先発して2勝目。逆転優勝の起爆剤となった。リーグ連覇の93年は8勝。西武に前年の雪辱を期す日本シリーズでは第1戦(西武)に先発して勝利投手となり、日本一につなげた。
「このころは楽しくて仕方なかった。そう思えるのは、故障して野球ができなかったとか、そういうことがあったからこそだと思います」
95年オフにヤクルトの構想から外れると、現役にこだわって横浜で1年だけプレーして引退。甲子園のアイドルは苦節を乗り越えて、プロとしてユニフォームを脱いだ。
写真=BBM