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プロ野球1980年代の名選手

杉本正 獅子&竜で活躍した変則技巧派左腕/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

人気選手の田尾との交換で中日へ


西武・杉本正


 1985年のキャンプ前、1月30日。中日のリードオフマンで、甘いマスクでも人気を集めた田尾安志の西武への移籍が突如として決まる。その交換相手の1人となったのが、左腕の杉本正だった。ショックはあったが、

「なんとか2ケタ勝利を挙げたい。田尾さんより活躍したい」

 マウンドで光った強心臓は、唐突に降りかかってきたトレードでも味方して、ショックをプラス思考に変換。移籍1年目こそ初めてのセ・リーグで苦しんだものの、慣れるのには長い時間は必要なかった。

 中学までは一塁手で、あこがれは巨人の王貞治だった。御殿場西高から大昭和製紙へ進んで、エースとなった。会社では、

「そろばんを弾いて帳簿をつける仕事でした」

 と振り返る。まだまだ、そろばん塾が町内にいくつもあり、それなりににぎわっていて、「そろばんさえできれば人生はなんとかなる」みたいな、今から思えば迷信のようなことを言われていた時代だ。そろばんの腕前は定かではないが、都市対抗のマウンドでは輝きを放った。80年には5試合すべてに先発してチームを優勝に導いて、橋戸賞を獲得。秋のドラフトで西武から3位で指名されて81年に入団すると、即戦力となる。4月7日の日本ハム戦(後楽園)で初登板初完封。

「アマチュア時代を含めて、後楽園は10回以上。このマウンドを自分のものにしている新人は、私くらいじゃないですか」

 真面目な性格で、チームメートの石毛宏典と新人王も争ったが、無欲だった。

「大きな賞が似合うのが石毛さん。僕は(新人王争いが)刺激剤になればいいですよ」

 1年目は最終的には7勝2セーブで、規定投球回にも到達したが、新人王は石毛に譲った。2年目もリーグ最多の4完封はあったが、やはり7勝にとどまる。相手を自分のペースに引き込むことができれば、そうそう打たれることはなく、あっさり完封することも少なくなかった一方、あっさり崩れることも多かった。それでも、黄金時代へと突入していく西武で、貴重な左のスターターとして機能する。

 3年目の83年は夏場から調子を上げ、初の2ケタ12勝を挙げて、西武となって初の連覇に貢献した。だが、阪急に王座を奪われた翌84年は、みたび7勝。雪辱を期したオフだったが、大石友好とともに田尾との2対1のトレードで中日へ移籍となった。

移籍3年目に自己最多の13勝


 中日1年目は5勝に終わったが、移籍2年目の86年に復活の12勝。リーグ5位の防御率3.01もマークして、10完投、3完封も光る。一方、田尾は86年オフに阪神へ放出。移籍の際に掲げた「2ケタ勝利」と「田尾より活躍したい」を同時に達成したといえるだろう。

 星野仙一監督1年目となった87年には自己最多の13勝。5月に5勝、防御率0.66と前半戦は破竹の勢いだったが、初の2ケタ勝利となった83年とは対照的に、夏場から失速している。90年シーズン途中に田淵幸一監督の率いるダイエーへ。低迷が続き、手薄だった左腕を欲しがっていた田淵監督のために、親友の星野監督が動いたトレードとも言われる。93年にプロで初めて一軍登板なしに終わり、オフに現役を引退した。

 快速球や決め球となる変化球はなかったが、緩急をつけながらストライクを先行させ、コーナーワークで勝負した。右足を上げてからクイッと内側へ入れて、タメと間を作る変則フォームは大きな特徴。それでも頭の位置はブレることがなく、制球を重視していたことが分かる。球威がない分、ストレートにシュートやスライダーを織り交ぜながら内外角で出し入れしていくコーナーワークは武器であり、生命線でもあった。初球から打者を小馬鹿にしたようなスローカーブを投げ込むのも印象的だ。時に狙い打ちさせることもあったが、打ち気にはやる打者には効果的だった。

 そんな変則技巧派左腕だったが、なぜか左打者には分が悪く、好不調の差が激しすぎることも含めて“変則的”な左腕だった。

写真=BBM
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