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平成の名将・仰木彬

【平成の名将・仰木彬を振り返る1 近鉄編】初の“仰木マジック”

 

オリックスの監督、コーチ、選手全員が4月29日の西武戦(京セラドーム)で背番号72を着ける。同日は名将・仰木彬氏の生誕の日。『72』は同氏が着けた番号だ。そんな仰木氏が「監督」として活躍した「平成」が幕を閉じる前に、“名将”の栄光の歴史を『近鉄編』『オリックス・ブルーウェーブ編』『オリックス・バファローズ編』の3回に分けて、週刊ベースボールONLINEで振り返っていく。

失点後に怒鳴る仰木


数段のステップに片足をかけ、太モモの上にヒジを置いて戦況を見つめるのが“仰木スタイル”だ


 近鉄、オリックスの監督として通算14シーズン、3のリーグ制覇、日本一1回。監督通算988勝は歴代13位の記録だ。

 セオリーにとらわれず、状況に応じて、臨機応変に動くその采配は「仰木マジック」と呼ばれた。しかし、それは単なるひらめきや、その場の思い付きなどでは、決してない。試合前、分厚いデータを徹底的に読み込み、相手の打順、投手陣の顔ぶれを分析し、頭の中で、常に「攻略法」を考え、何度もシミュレートしていたという。

 2019年から、中日の一軍打撃コーチを務める村上崇幸は、近鉄の監督時代の仰木に、忘れられない強烈なシーンがあるという。ある選手に本塁打を浴び、スコアボードに「1」が記された後、試合が再開された。投手はもう、次の打者に投球していた。

「なんでや」

 仰木が周囲を見回し、だれかれ構わず、怒鳴り上げていた。

「おい、なんであそこに1点が入っているんだ。どういうことや」

 ベンチの脇にある、グラウンドに出るための数段のステップに片足をかけ、その太モモの上にヒジを置き、戦況を見つめているのが、仰木のいつもの姿だ。その手に握られたボールペンの芯を出し入れする「カチカチ」という音も、よく聞こえたという。

「あの、いつものポーズですよ。微動だにしていなかったんです。それなのに、叫び出したんですよ。びっくりしました。見てなかったんかい? ってことですよ。嘘でしょ? と」

 頭の中は、常に「野球」だった。勝つために、一手先、二手先の試合展開を予測し、何通りもの策を考えているあまりに、目の前のグラウンドでの状況すら、見えなくなっていたのだ。

「怖かったですよ。野球に関しては本当に真剣だった」

 そう語る村上は、関西独立リーグの06ブルズの監督を10年間務め、今季から初めてNPB球団の指導者になった。だからこそ仰木の思いが今、実感として、よく分かるのだという。

「10・19」――。仰木を語る上で欠かせない名勝負は、近鉄の監督としての1年目、1988年だった。ロッテとのダブルヘッダーで、連勝すれば優勝。負けられない第1戦。意気込む当時22歳の村上の名前は、スタメンに記されていない。

「ええところで行くからな」

 仰木には試合の展開が見えていたのだろう。だから、気持ちの強い村上を勝負どころで使うつもりで控えさせていたのだ。ビハインドの8回、仰木が満を持して「代打村上」を告げると、村上は同点ヒットを放った。

「対戦成績、球場、場面、個人の性格。それをすべて分かって使う。だから準備ができる。この場面は俺だ。そう思っていたら、起用も俺。自分たちで分かるし、そこで使ってくれる。仰木マジックがあてはまったから、活躍できたんですよ」

 その「勝負師」の発想に、村上はいつも、感服させられたという。

「セオリーって、あると思うんですよ。でも、逆も必要なんですよね」

 連敗が続く。よくあるのは、遠征先での外出禁止。反省の意味をこめてのものだ。しかし、仰木は正反対だった。

「ええか、野球は勝ったり負けたりや。だから、この後は勝ちが続く。よっしゃ、今日は気分を変えよう。門限はなしや。遊んで来い」

 村上も、夜の街へ飛び出した。気兼ねなく、痛飲する。すると、翌朝になると、不思議と「やらなきゃ」という思いになってくるのだ。

「仰木さんが率先して遊んでいるように見えましたけど、そう見せるの、うまかったんですよ」

 村上が、懐かしそうに振り返ってくれたのは、いつも上半身裸で外野のフィールドを走る仰木の姿だった。周囲には「昨日の酒を抜いとるんや」と言い放ち、笑わせる。しかし、そのときにも、緻密な計算があった。

 ランニングをしている投手陣に向かって、仰木が走ってくる。そのすれ違いざまに、声をかけてくるのだという。
 

これぞ仰木マジック!


“耳打ち”も一つの仰木マジックだった(右は清川栄治


 92年、ドラフト1位で近鉄に入団し、現在はソフトバンクの一軍投手コーチを務める高村祐は、その“耳打ち”が、印象に残っているという。

「呼ばれて、説教されたりすることなんて、なかったですね。監督が前から、汗を流しながら走ってくるでしょ? すれ違うときに、一言二言おっしゃるんですよ、何気なく」

 監督が呼び止め、グラウンド上で話したり、監督室に呼んだりすれば、周囲に感づかれる。故障か、二軍落ちなのか、妙な憶測も呼んだりする。ところが、上半身裸でのランニング中に、アドバイスや心構えを伝授しているとは、誰も思わないだろう。

「周りから見ていたら、絶対分からない。それが当たり前。僕が新人王を獲れたのも、監督のおかげです」

 萎縮することなく、ノビノビ、マイペースでやらせてもらえた。高村も仰木への感謝は尽きないという。

 現在、西武の巡回投手コーチを務める清川栄治も「かしこまって話をすることは、まったくなかったですね」と証言する。起用法や采配に関しても、選手に直接、その意図や狙いを説明することも、ないのだという。

「でも、終わってみたら、その狙いが分かるんです。それだけ選手のことを、本当に見てくれていたということですし、仕事をさせて、さらにやる気にさせてくれた方でした」

 そう語る清川は、91年のシーズン途中、広島から移籍してきたサウスポーだ。97年には当時のプロ野球記録となる「438試合連続救援登板」を達成することになる「左殺しのスペシャリスト」を、仰木はことのほか、重宝した。

 その清川の名前が、パ・リーグのレコードブックに刻まれることになったのも「仰木マジック」のなせる業だった。

 92年5月15日。福岡・平和台でのダイエー(現ソフトバンク)戦で、清川は6回からリリーフのマウンドに立った。8回、三番・藤本博史に四球を許し一死一塁。四番は右打者のブーマーだが、五番・山本和範、六番・門田博光、七番・吉永幸一郎、八番・浜名千広と、左打者がずらりと並んでいた。

 仰木が、ベンチを出てきた。清川は、仰木が村田球審に話しかける声が、よく聞こえたという。

「むらちゃん、清川、ファーストにしようかと思うんや。どうかな?」

「ええんとちゃいますか」

「そうやろ。じゃ、一塁に清川」

 マウンドには、右腕の山崎慎太郎を送り込んだ。思わず目を見合わせる内野陣。それもそのはず。75年にパ・リーグで指名打者制が採用されて以来、投手が守備位置についたケースは、これが「初」だったのだ。

 これぞ「仰木マジック」だ。

「ブーマーのところで行くぞとは言われていたんですけど、キヨさんが一塁に残るとは言われてなかったですよ。だから、ん? みたいな。マウンドに行ったら、みんな笑ってるもん」

 現在、野球評論家として活躍しながら、天理高で投手コーチも務める山崎も、四半世紀以上前のシーンを思い出しながら、笑っていた。キャンプで練習したことも、起用法を説明されたこともない。それでも、仰木は何の迷いもなく“史上初の奇策”を打ち出してきたのだ。

「頑張らんでええ。でも、一生懸命にやれ」


奔放なようで緻密。選手を信じ、常にじっと見守る。そして、野球に対して、誰よりも「一生懸命」だった仰木氏


 清川は、自分の投手用のグラブのまま、一塁に就いた。山崎がセットポジションに入る。すると、捕手からのサインは「けん制」だった。

 捕手のサイン、つまり、ベンチからの指示だ。仰木も、この場面を楽しんでいるのが分かる。ブーマーは、初球を打って三塁ゴロ。石井浩郎が一塁の清川へ送球してアウトに仕留めた。だから、清川の生涯記録には、一塁手として、刺殺「1」がついている。

 仰木が、またベンチを出てきた。清川を再びマウンドへ戻すと、8回二死から最後まで投げさせた。チームは勝利を収め、清川にセーブがついた。

 山崎は当時、ブーマーに「相性がよかったんです。仰木さんの中で、あそこでのブーマーがいやだったんでしょ」と振り返る。それは、データに基づき、試合状況を見て、そこに現場の空気を加味することで、仰木が導き出した結論であり、それをちゅうちょなく実行するのだ。

 ただ、事前の説明がないから「コーチ陣とは衝突しちゃうんでしょうね」と山崎。権藤博山田久志ら、仰木のもとで投手陣を預かったコーチは、何かと衝突するケースが多く、スポーツ紙をたびたび騒がせた。

「でも、たいてい、うまくいくほうが多いんですよ。だから、選手も何も言わないし、むしろ、使ってもらったという思いの方が、選手は大きいんですよね」と山崎は言う。

「総合プロデューサーですね」

 仰木という指揮官を表現してほしいという問いに対する、清川のシンプルな答えが、これだった。

「できると思うからやるんですよね。奇想天外、びっくり箱。さりげなく、そして、目が飛び出るようなことをやる。奥深いですよ。そうか、と後で気づくんですよ」

 清川も、指導者になって、仰木の思いや意図が、ふと分かる瞬間があったという。起用した若手投手が好投している。もうちょっと、いけるかもと思いながら「ええところでやめさせるようにするんです」という。

「役割は果たした。だから、それでもうええと。次にいいイメージにつながるじゃないですか、そのほうが。ええところで下ろす。温めておいて、いいところで使う。そういうことを、考えるようになりましたよね」
 
 それが「仰木イズム」でもある。清川にとって、仰木のもとでプレーしたのは91年途中からの1年半。それでも、仰木からの学びは多かった。

 清川は、近鉄監督を退任する仰木に、あるお願いをした。
 
「仰木さんの『健脚』にあやかろうと思って」と、仰木の着用する「白いストッキング」をもらいに行った。

「よっしゃ」と、快くストッキングを譲ってくれた仰木は、清川が持参した色紙に、サインも記してくれた。

「一生懸命」

 その添え書きは、仰木のモットーだった。清川は、何度となく、仰木からその言葉をかけられたという。

「キヨ、頑張らんでええ。でも、一生懸命にやれ」

 奔放なようで緻密。選手を信じ、常にじっと見守る。そして、野球に対して、誰よりも「一生懸命」だった仰木のマネジメント・スタイルは、近鉄監督を退任して2年後の94年、オリックスの監督に就任してから、さらに大きな実を結ぶことになる。
(次回、4月8日公開『オリックス監督編』に続く)

取材・文=喜瀬雅則 写真=BBM


【オリックス・バファローズが『ありがとう平成シリーズ』開催】
 オリックス・バファローズが、平成最後のホームゲームにあたる4月27日(土)〜29日(月・祝)に行う埼玉西武ライオンズとの3連戦で「ありがとう平成シリーズ」と題し、“平成”を振り返るイベントを開催する。

 4月29日(月・祝)は、オリックス・ブルーウェーブ、近鉄・バファローズ、オリックス・バファローズを率いた平成を代表する名将、故・仰木彬元監督の生誕の日。この日、オリックスの監督・コーチ・選手は、ブルーウェーブ時代のユニフォームに仰木彬元監督の背番号『72』を着け、気持ちを一つに平成最後の試合を戦う。

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週刊ベースボール編集部

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