1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 どうしても逃げ遅れて……
死球にまつわる逸話には事欠かない
広島の
達川光男と「西の達川、東の金森」と並び称された西武の金森栄治。ともにテレビの『珍プレー好プレー』(の珍プレーのほう)では主役級の存在感。達川の場合は、いかにオーバーアクションをしようとも、本当に死球だったのかが疑わしいことも少なくなかったが、こちらはガチ。ジャングルのターザンか、あるいはジャングルの奥深くに生息する未知の哺乳類が雄叫びをあげているかのような、
「あーっ!」
という絶叫は、印象に残る……というよりも、30年を超える時間が経過した現在でも耳にこびりついていて、思い出すたびに笑いが込み上げてきてしまう。老練な達川が“苦笑い系”だったのに対して、こちらは“爆笑系”で、ついた異名は“爆笑生傷男”。実際に死球は多く、初めてパ・リーグの“死球王”となった1984年は、奇しくも達川が初めてベストナイン、ダイヤモンド・グラブをダブル受賞したシーズンでもあるが、わずか65試合で12死球と、ぶつけられまくっている。
脇のしまったコンパクトなスイングで、腰で打つことを心がけた。つまり、球を体の近くまで引き付けて打つため、どうしても逃げ遅れるのだ。逃げ遅れて、やむを得ず背中や尻で球を受け、なんとも言えない雄叫びは、痛みを逃がすためだという。175センチ、72キロというプロ野球選手としては小柄な体でのたうちまわって、チームの先輩からは「当たり方を若い選手に教えてやれ」と、よくからかわれたというが、からかい半分、実際に死球が重傷につながるリスクを減らすために機能しそうな“技術”だったようにも思える。
もともとは、達川と同じ捕手。PL学園高では二塁手だったが、早大で捕手となり、プリンスホテルを経てドラフト2位で82年に西武へ。アマチュアの球歴はエリートコースともいえるが、初めて西武の練習に参加したときに、プロ入りを悔やんだという。
「みんなデカいし、力もある」
生き残るためには、なんとしてでも、粘りに粘って塁に出る。それが死球の多さにもつながったが、ひたむきな姿勢は辛口で知られる
広岡達朗監督の目に留まる。1年目の終盤に先発マスクも経験し、二軍スタートとなった2年目の83年は司令塔の
伊東勤が故障したことで一軍に昇格。そこで広岡監督から「外野の練習をしておけ」と言われて、5月11日の阪急戦(平和台)で初めて左翼手として先発出場、そのまま外野手に転向した。
85年に2度目の死球王&打率.312
まだまだレギュラーの座は遠かったが、一躍、名をあげたのは“盟主決戦”と呼ばれた巨人との日本シリーズだ。2勝3敗と後がない第6戦(西武)、試合は延長戦に突入。10回裏二死一、二塁の場面で代打として打席に立つと、
江川卓からサヨナラ打を放って、
「ベンチの騒ぎを見て、やったと分かった」
と声を弾ませた。翌84年が初の死球王。登録名を「金森永時」と改めて迎えた85年も自己最多の15死球で2年連続の死球王となったが、初めて規定打席にも到達してリーグ8位の打率.312をマーク、外野のベストナイン、ダイヤモンド・グラブにも選ばれた。
88年5月17日に
北村照文とのトレードで阪神へ移籍。移籍して早々、新天地でも“らしさ”を発揮する。28日の大洋戦(甲子園)は、代走や守備のバックアップが多かった大洋の
石橋貢がキャリア通算6本塁打のうち3本塁打を放ってファンを括目させた試合だ。打っては1回裏に先制の2点適時打を放ったが、守っては石橋の2本目を追いかけて左中間ラッキーゾーンのフェンスを駆け上がるも、打球に届かず、ラッキーゾーンの中へ転落。「金森も入ったーっ!」という実況の絶妙さもあって、ふたたび“珍プレーの主役”に躍り出た。
93年に
ヤクルトへ移籍。登録名を「金森栄治」に戻す。
野村克也監督に左の代打として信頼され、古巣の西武との日本シリーズにも出場してリーグ連覇、日本一に貢献するなど、40歳までプレーを続けた。
写真=BBM