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プロ野球1980年代の名選手

アニマル なぜ勇者のクローザーは荒々しいパフォーマンスを行ったのか?/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

藤田だけでなく上田監督にも……


阪急・アニマル


 2013年に54歳の若さで死去したブラッド・レスリー。かつての関係者からは、「登板前に震えるほど気が弱かった」という声が聞かれた。荒々しいパフォーマンスは、実はパフォーマンスではなく、弱気になっていく自らを奮い立たせるために必要不可欠な儀式だったのだろう。

 野獣と呼ばれた男だったが、なんとも人間らしい素顔を持っていたということだが、当時は気の弱さなど、みじんも感じさせなかった。1986年からの2年間と在籍した期間は短く、活躍できたのは来日1年目だけだったが、そのインパクトは絶大。気が弱いどころか、彼が繰り広げたド派手なアクションには、おおいに笑わせてもらった。阪急のクローザーを務めたアニマルだ。

 正捕手の藤田浩雅は、

「球質は重かったが、高めの球が多く、リードするのが難しかった」

 と振り返る。言うまでもなく、投手をリードしてチームを勝利に導くのが捕手の仕事。ただ、痛し痒しというか、痛いだけというか、独特で微妙な気の重さがあったのではないか、と想像してしまう。勝ってしまうと、あまりにも手荒い祝福が待っているのだ。本人は挨拶や祝福のつもりだったのだろうか、身長200センチ、体重100キロと、外国人選手としても大柄な体から繰り出される祝福のパンチは、見ているだけで痛そうだった。そして、殴られた選手には申し訳ないが、やっぱり笑ってしまった。

 これが自分より若い選手だけにやっているのなら、今ならパワハラなどと言われてしまいそうだが、相手が上田利治監督でも容赦なし。初キャンプの紅白戦で好投し、握手を求めてきた上田監督に対してグラブでボコッ。50歳にもなろうかという知将は「肋骨にヒビでも入ったかと思った。1カ月くらい胸の痛みがとれなかった」と苦笑い。その後は警戒して、勝っても興奮が収まってから近づくようになったという。

 その上田監督が自ら渡米して、獲得を推し進めた。82年のメジャーデビュー戦で、一ゴロのカバーに入った際、送球が遅れたチームの大先輩を怒鳴りつけて「怒り狂った野獣(アニマル)かと思った」と言われたのがきっかけで、ニックネームがアニマルに。来日した86年は27歳で、推定年俸は3000万円に満たない。破格の年俸で招かれる大物の助っ人には見られないハングリー精神とガッツが最大の魅力だった。だが、そのガッツは上田監督の期待を大きく上回る。

新人の清原に尻もちをつかせる3球三振も


 異様に気合を入れてマウンドに上がり、打者を抑えるたびに雄叫び。初勝利を挙げた4月14日の西武戦(西宮)では新人の清原和博を3球三振に斬って取り、尻もちをつかせている。4月は1勝4セーブ、5月が4セーブ、6月も4セーブ。86年の前半は、まさにMVP級の活躍だった。初めて敗戦投手となったのが8月で、初めて本塁打を許したのが10月だ。ブルペンで20球も投げれば肩が出来上がるなど、リリーバーに適性があった一方で、短いイニングでも集中力が持続せず、四番打者を打ち取って安心するのか、五番に打たれ、あわてて六番を打ち取るというようなムラも、ある種の持ち味だった。

 破壊的な歓喜のアクションに限らず、陽気なパフォーマンスも多岐にわたり、書き始めたら際限がない。10月18日のロッテ戦ダブルヘッダー第1試合(川崎)では、5回を終えてグラウンドを整備する係員に交じって、同じ黄色い服でトンボを持って登場。9回裏二死から“再登場”して1球セーブを達成している。

 86年は最終的に5勝19セーブ。エースの山田久志に口をきいてもらって大阪での春場所を観戦するなど相撲ファンでもあり、翌87年のオープン戦では長髪でマゲを結って登板したこともあったが、シーズンでは急失速。オフに退団し、現役を引退した。福本豊に教えてもらって漢字でサインしていた“亜仁丸”を気に入り、引退後も日本に残って、亜仁丸レスリーの芸名でタレントとしてもパフォーマンスを炸裂させている。

写真=BBM
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