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パンチ佐藤の漢の背中!

“ファームずれしていた”東大出身、元ロッテ・小林至氏の野球人生/パンチ佐藤の漢の背中!「1」

 

『ベースボールマガジン』で連載している「現役を引退してから別のお仕事で頑張っている元プロ野球選手」のもとをパンチさんが訪ね、お話をうかがう連載です。今回は史上3人目の東大出身プロ野球選手としてロッテ入団時は話題を呼び、のちにソフトバンク球団取締役を務め、現在は大学教授としてスポーツビジネスを研究する小林至さんを江戸川大学に訪ねました。

実体験をのちに後進の反面教師に


小林至氏(左)、パンチ佐藤


 野球人生最初の目標は、「プロ野球選手になること」ではなく、「(進学校の神奈川県立)多摩高校で野球をやること」だったという、小林さん。その多摩高ではレギュラーになれなかったが、すっかり硬式野球の魅力にはまり、大学でも野球を続けることを決意した。

 とはいえ、「自分の力では東大以外、日の当たる場所で野球をやる方法はないだろう」と、一浪を経ての入学。やがて、その名は全国の野球ファンに届くことになる。

パンチ 学生時代から一つひとつ、夢を実現していっているんだね。

小林 大学受験がうまくいったことで、自信が付きましたね。僕は高校でレギュラーになれず、コンプレックスがあったんです。もちろんそれをバネにはしてきましたが、初めての成功体験は大きかった。大学では順調に階段を上り、3年から先発に入り、4年でエースに。自分の可能性を、無限に信じられるようになりましたね。

パンチ ただ、東大で勝つのって、難しいでしょう。

小林 0勝です。最後のシーズンは防御率2点台だったんですけどねえ。やはり他の五大学の選手たちとは、才能の差が大きかったですね。

パンチ そこを勝つために、何をどう努力しようとか、策は考えたの?

小林 やみくもに練習しました。練習量が足りないんだ、体力が足りないんだって。野球をやってきた時間が他校の選手に比べて少なかったので、そこを追いつくためには、朝から晩まで練習しなければと思っていました。今考えれば、反省しきりです。

パンチ 逆だよね。

小林 東大っぽくないですよね(笑)。

パンチ 普通だったら、「2時間で勝てる方法はないかな」って考えるよね。今、慶應高校なんかそうじゃない。短い練習時間でね。そこにわが母校・武相は負けるんだから(苦笑)。

小林 野球になると、東大生、真面目になり過ぎちゃうんですよ。

県立多摩高から一浪を経て、東大に入学。神宮球場の六大学リーグにもたびたび登板した


パンチ 「野球なんて」って考え方でよかったのにね。でも、よくぞプロに入ったよね。マスコミや、(ロッテ)金田(正一)監督がウワ〜ッとやりたいのは分かるんだ。“大人の事情”もあるから。だけどそこを、君自身が選んだのは素晴らしいと思ったよ。

小林 うれしかったですよ。金田さんが「坊主、野球は好きか」と聞くので「はい」と答えたら、「よし」と言ってくださった、あの瞬間は脳裏に焼き付いています。ただ,
プロに入って満足してしまった自分がいましたね。それはちょっと、悔しいです。力不足だったのは確かですが、もっと完全燃焼するまでできたなという後悔はあります。

パンチ どこか、ダラッと過ごした部分があった?

小林 結構、ファームずれしてしまいました。一生懸命やっている選手のことを、斜に構えて「どうせアイツは○○コーチのお気に入りだから……」なんて言っているようなグループに入ってしまいまして。

パンチ ああ、俺もそれに近かった。でも、そうなったらダメだよね。

小林 特に2年目は、2カ月に1回、1イニング程度しか試合に出してもらえなかったんです。だからホークスのフロントに入ったとき、そういう選手が出ないよう、自分が責任者となった折には、三軍制を作りました。できるだけ多くの選手を試合に出して、トコトン可能性を探ってもらうことが、選手のためでもあり、会社のためでもあると思いましたので。

パンチ のちにフロントの仕事をするとき、実体験が役に立ったわけだ。

小林 はい、大いに役立ちましたね。若い選手にも、こうなっちゃダメだよ、と自分の話をしました。特に野球エリートで来た選手たちは皆、子どものころから王様だったじゃないですか。ところがプロに入ると上には上がいる。そこで腐る気持ちもあるだろうけど、短い選手生活、とにかく矢尽き刀折れるまで頑張らないと、後で後悔するよ、と。

ロッテ時代のユニフォーム姿


パンチ そうだね。腐っても拗ねても、ダメだよね。初めて野球をやったときの気持ちで、いつも爽やかにグラウンドに立てるかどうかだよね。斜に構えてものを見てしまうと、どんどんやる気がなくなってくる。それを学んだんだね。

小林 学びましたね。野球を離れてみると、プロ野球選手ほどいい世界は、他にそうありません。自分の好きなことをして、カッコいいユニフォームを着て、ヒーローになって。

パンチ 今まさにプロ野球界に足を踏み入れようとしている選手たちにも、それは感じていてほしいね。

小林 そうですね。とにかく自分の可能性を、トコトンまで追求する。そして、工夫することだと思います。素直でいい子であるのは、周囲とうまくやるために大切な要素ではありますが、その中にも自分の芯を一つ、持っていてほしいですね。

米大学院でMBAを取得し凱旋帰国のはずが……


パンチ さて、野球をやめた後の話なんだけど。東大卒だったら、引く手あまただったでしょう。仲間や先輩から、「ウチの会社に来ないか」と、ずいぶん誘われたんじゃない?

小林 ありました。電通、東京ドーム……地盤をやるから選挙に出ないかという話もありました。「まず県議会で1期、2期やって、国政に」と。プロゴルファーの話もありました。

パンチ それだけのチャンスがあったのに、アメリカに行っちゃったんだ。夢のプロで3年、結果はうまくいかなかったけど、ここからの人生、大手企業で見返してやるぞ、とはならなかったの?

小林 「野球選手終わっちゃったな、残念だったな、これからどうしようかな」と思ったとき、なんだかモラトリアム状態になってしまったんです。そこで、「アメリカの大学院に留学して、MBA(経営学修士)を取って帰ってくると、日本で重宝されるよ」という話を聞きまして。

パンチ 大学院を卒業してからも、まだ向こうにいたんだよね。

小林 全部で7年いましたね。

パンチ MBAを取ったら、すぐ日本に帰ってきて大手企業に入るもんだと思っていたよ。

小林 そうですね。そこは自分も勘違いしたところがありまして。「コロンビアでMBAを取ったら、もう周りが放っておかないよ」といろんな方に言われていたんですよ。テレビのキャスターとか引く手あまただろうし、ビジネスマンを選択しても、好待遇で迎えてくれるに違いない、とね。ところが僕の在米中、アトランタ五輪があったので知り合いのテレビ局の方に電話したら、答えは「うん、まあ……ちょっと難しいかな」。「あれ?」という感じでしたね。箔を付けてきたつもりが、まったくお呼びじゃなかったという。

<「2」へ続く>

●小林至(こばやし・いたる)
1968年1月30日、神奈川県出身。県立多摩高から東大を経て、ドラフト8位でロッテに入団。東大出身3人目のプロ野球選手となる。退団後は米国に7年間在任し、コロンビア大学で経営学修士号(MBA)を取得したほか、米国企業にも勤務。02年から江戸川大学。05年から14年まで、福岡ソフトバンクホークスの球団取締役を兼務。専門はスポーツ経営学。日本版NCAA創設に向けた学産官連携会議(スポーツ庁)の座長、スタジアム・アリーナ推進官民連携協議会(スポーツ庁)の幹事、立命館大学客員教授、テンプル大学客員教授なども務める。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=山口高明
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