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パンチ佐藤の漢の背中!

「コミッショナーの夢はまだ捨てていない」元ロッテ・小林至氏/パンチ佐藤の漢の背中!「2」

 

『ベースボールマガジン』で連載している「現役を引退してから別のお仕事で頑張っている元プロ野球選手」のもとをパンチさんが訪ね、お話をうかがう連載です。今回は史上3人目の東大出身プロ野球選手としてロッテ入団時は話題を呼び、のちにソフトバンク球団取締役を務め、現在は大学教授としてスポーツビジネスを研究する小林至さんを江戸川大学に訪ねました。

読売新聞・渡邉恒雄氏への取材が縁でホークス入り


小林至氏(左)、パンチ佐藤


 当時、就職活動もしていなかったという小林さん。求人情報で、フロリダのテレビ局が日本語放送開始にあたり、スタッフを募集していることを知って応募し、採用された。翻訳、通訳が、その会社での主な業務。

「お給料はそんなによくなかったけれども、当時ハマっていたゴルフができるからいいや、と思いました」と明るく振り返る。

パンチ 意外と楽天的だね(笑)。

小林 当時はそうでした。でもその会社をクビになり、ビザがなくなったので、日本に帰らざるを得なくなりました。帰国後はとりあえずテレビやラジオのコメンテーターのような仕事をいただきながら、本も書きました。

パンチ だって今の話、しゃべったり本にしたりしたら、面白いよね。

小林 あんまりブレークする雰囲気はなかったんですが(苦笑)。というよりも、帰国後、半年もしないうちに徳田虎雄さんに勧められて、衆議院選挙に出たんです。

パンチ 日本をこう変えたいとか、何か思いがあったの? 当時、どんな公約をしたのかな。

小林 公約は、一つには雇用の際の年齢差別の撤廃ですね。アメリカは当時から、履歴書を出すのに年齢を書いてはいけなかったんです。

パンチ いいことじゃない。でも、ダメだったのか。

小林 はい……。そこで本当に仕事がなくなってしまいました。ちょうど長女が生まれて、5人家族になったときだったんです。忘れもしない、2001年8月。どうしようかなと思っていたときに、江戸川大学の学長から、知り合いを通してお声が掛かりました。お会いしてみたら、「君の生き方が大好きだ」「もし大学教員に興味があるんだったら、うちで教員としての人生を始めてみないか」と。うれしかったですね。

パンチ それ、僕はいつもこの対談で言うんだけど、一生懸命生きていると、必ず声を掛けてくれる人がいるんだよね。そこからソフトバンクへはどういう縁があったの?

小林 大学教員のスタートが02年で、次の転機が04年なんです。球界再編があって、球団経営に関する本を書くことになりました。そこでありがたいことに、読売新聞社社長だった渡邉恒雄さんがインタビューに応じてくださいました。渡邉さんがその年受けた唯一の取材だったそうです。

パンチ それはすごいね。どうやって口説いたの?

小林 最初、読売新聞の広報を通じて取材申請をしたら、断られました。どうしたものかと思っていたところに、渡邉さんは手紙なら読んでくださるという噂を耳にしまして、それならばと、一縷の望みをかけて、2日間かけて、長〜い手紙を書いたんです。僕の思うプロ野球経営の在り方とか。選手会が正義で経営者側が悪、という風潮があるけれども、私はおかしいと思う。経営があってこそのプロ野球でもある。そういう観点から、ぜひ渡邉さんに経営者の視点でのお話をうかがいたい、と。

パンチ それで渡邉さんとは実際、どんな話をしたの?

小林 プロ野球はどうあるべきか、1リーグ制には正義もあるだろう、という話もしましたね。

パンチ ちょっと待って。その渡邉さんとのご縁が、ソフトバンクの孫正義さんにどう関わってくるの?

小林 そのインタビューをもとに本を出したところ、渡邉さんが非常に気に入ってくださり、「自分の知り合いすべてに配る」と300冊ほど買い取ってくださったんです。それを受け取った一人が、孫さんでした。

パンチ うわあ、今日は本当にすごい話ばかりだなあ(笑)。それで孫さんから連絡が来たんだ。

小林 ちょうど04年の年末、ダイエー買収を表明した直後でしたね。「小林君、ちょっと経営、手伝ってよ」と、お会いしたその日に言われました。

パンチ アメリカでMBAを取ってきたことが、やっとつながったんだね。

小林 その瞬間にすべて集約された感じです。

パンチ だからよく言うよね。人生に必要じゃないものはない、とか。

小林 いつかは大好きなプロ野球の経営に携わりたいという気持ちがありましたが、MBAを94年に取って、早10年。大学の教員にはなれても、プロ野球の経営に携わるチャンスはもうないのかな、残りは研究者としての人生かなと思ったところに、声を掛けていただいた形です。

ロッテでの現役時代は珍しい東大出身プロ野球選手ということで、取材を受ける機会が多かった


パンチ 球団に入って最初の仕事はなんだったの?

小林 最初はビジネス担当で、どうすれば売り上げを伸ばすことができるのか。特にスタジアム改革ですね。フィールドシートの導入や、ファンクラブの充実などを手がけました。

パンチ そして、三軍制か。

小林 はい。三軍制の導入と、あとは信賞必罰の年俸体系ですね。これはだいぶ、反発されてしまいました。

パンチ 信賞必罰の年俸体系とは、具体的に言うと、どういうこと?

小林 プロ野球の年俸は、いわば年功序列なんですね。ベテランになると、なかなか下げられない。それを活性化させようと、年俸の仕組みを変えたんです。つまり、ベテランでも活躍しなければドーンと下がるし、若手でも活躍すればドーンと上がる。王(王貞治)会長に相談をしたら、プロ野球とは本来、そうあるべきだと応援もしていただきまして。

パンチ それは俺も思っていたよ。年俸の高い選手と安い選手で、お金の価値が変わってくるんだ。もらっている人は、上がるときは簡単に倍になるのに、1200万の選手が「1400万欲しい」と言うと、「200万がどれだけだと思ってるんだ」と言われてしまう。「過去の実績がない」とか、「来年もこの数字を出したら」とか。来年は来年じゃない。おかしいよね。

小林 1億を超えると、一声1000万とかになっちゃうんですよね。FAが近い選手とか、5年間活躍した選手と1年目の選手は当然違うんですが、今まさに活躍した若い選手からすると、ベテランでさほど活躍していない選手の年俸が上がったり、あまり下がらなかったりすることには、やはり不満があると思うんです。それを反映した形でした。

三軍制新設の一期生がここ数年の戦力に


パンチ 三軍制のほうでいえば、ホークスは育成選手がバンバン活躍しているよね。

小林 私が編成担当の取締役になった翌年のドラフトで、甲斐拓也千賀滉大牧原大成を獲りました。これも王会長のバックアップが大きかったんですよ。三軍制にはお金がかかるが、常勝軍団を作るための必要な投資なんだということを本社に納得してもらうには、私一人では難しかったと思います。

パンチ そんなに活躍していたのに、どうして辞めたわけ?

小林 実は大学に籍を残してもらったまま、10年ホークスにいたんです。8年目くらいから、大学側に「小林さん、そろそろどちらかに決めてもらえないかな」と言われていたこともありまして。ちょうど10年で、球団の体制も変わりましたし、それを機に大学教員として、また幅広く仕事をしてみようかと思いました。

パンチ 今は大学で何を教えて、ほかにどんな活動をしているの?

小林 スポーツビジネスを中心に、毎週講義科目2コマとゼミ4コマ、教えています。あとは、大学スポーツ協会創設事業(スポーツ庁)に、構想段階からかれこれ3年、携わっています。

パンチ 小林君って、何か開拓するときに呼ばれる人なんだね。

小林 ただ、表に出るとよくないようです。表に出ると、叩かれる(苦笑)。今、メディアの仕事もしているんですが、そっちはなかなかブレークしなくて……。

パンチ 何か立ち上げるときに、力を貸す人なんだろうなあ。しかし、それでもすごい人生だよ。なんでこんな人生が送れているんだと思う?

小林 自分がやりたいことを口にして、笑われても気にしなかったから。だって僕のプロ野球人生、お笑いじゃないですか。

パンチ 俺も同じ考えだよ。自分で思っていることを口にして「こうなるんだ、こうしたいんだ」って言うと、叶うよね。

小林 僕、大学で「プロ志望」って書いたとき、当時の監督に「野球をバカにしていると思われるぞ。六大学にいたら、自分の実力は分かるだろう」と言われたんです。でも僕、「本気なんです」と言いましたよ。行きたいから言っているのに何が悪いのか、と。

パンチ それなんだよ。大人は子どもに「夢を持て」とか「あきらめるな」とか、「ゴールを決めるな」とかカッコいいこと言うけど、自分はやる前から「ムリだよ」とか言うじゃない。それはダメだよね。将来の夢は?

小林 今もまだ、プロ野球コミッショナーの夢は捨てていないです。プロ野球をもっともっと活性化したいし、野球の普及にも尽力したい。そういったことに対し、仕掛けができる人間になりたいんです。総じてはスポーツの活性化、地位向上を実現したいですね。

パンチの取材後記


 今までに会ったことのないような、多彩な人生経験をしてきた人で、話を聞いていて、本当に面白かったです。

 対談中にも言いましたが、小林君は何かを始めるときに呼ばれるタイプ。僕も東北とか熊本とか、自分では『元気配達人』なんて言っていますが、同じようなタイプだと思っています。そんな似た者同士(!?)でいつか、彼とラジオをやってみたいと思いましたね。楽しいだろうなあ。

 最後に余計なお世話を一つだけ。3人のお子さんの子育てを、すべて奥さんに任せきりだったという小林君。もう少し奥さんや子どもさんとの時間を作ってあげてほしいなあ。一番下のお譲さんが高校2年生というから、これがラストチャンスだよ。

<完>

●小林至(こばやし・いたる)
1968年1月30日、神奈川県出身。県立多摩高から東大を経て、ドラフト8位でロッテに入団。東大出身3人目のプロ野球選手となる。退団後は米国に7年間在任し、コロンビア大学で経営学修士号(MBA)を取得したほか、米国企業にも勤務。02年から江戸川大学。05年から14年まで、福岡ソフトバンクホークスの球団取締役を兼務。専門はスポーツ経営学。日本版NCAA創設に向けた学産官連携会議(スポーツ庁)の座長、スタジアム・アリーナ推進官民連携協議会(スポーツ庁)の幹事、立命館大学客員教授、テンプル大学客員教授なども務める。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=山口高明
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