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平成の名将・仰木彬

【平成の名将・仰木彬を振り返る2 オリックス・ブルーウェーブ編】“マジシャンぶり”を発揮した8年間

 

オリックスの監督、コーチ、選手全員が4月29日西武戦(京セラドーム)で背番号72を着ける。同日は名将・仰木彬氏の生誕の日。『72』は同氏が着けた番号だ。そんな仰木氏が「監督」として活躍した「平成」が幕を閉じる前に、“名将”の栄光の歴史を『近鉄編』『オリックス・ブルーウェーブ編』『オリックス・バファローズ編』の3回に分けて、週刊ベースボールONLINEで振り返っていく。

一介のプレーヤーに求めた意見


1994年から2001年までの8年間、コーチを務めた新井宏昌(写真右)。現役時代から仰木彬監督は新井の卓越した技術と理論を高く買っていた


 仰木彬は、近鉄での5年間の監督生活で、1989年のリーグ優勝を含め、すべてAクラス入りを果たした。

「仰木マジック」と称された大胆な采配と、的確な選手起用は球界内でも高い評価を生み、近鉄監督退任直後から、監督就任への打診が、水面下では相次いでいたともいわれている。

 引く手あまたの仰木が、次なる挑戦の場として選んだのが、近鉄のライバルで、同じ関西の神戸を本拠地とするオリックスだった。その当時、オリックスも84年を最後に、長く優勝から遠ざかっていた。若き逸材が多いという評判で、むしろ「なぜ勝てない?」と言われていたころだった。

 近鉄監督の退任からわずか1年。94年にオリックス監督に就任した仰木が、その“マジシャンぶり”を発揮するのは、ここから8年間の監督時代と言ってもいいだろう。

 そして就任直後、仰木は後に「希代のスーパースター」となる、一人の若者と出会い、その育成手腕やチームマネジメントの巧みさに、世間から後に大きな注目が集まることにもなる。

 仰木の近鉄監督時代、二番打者として活躍した新井宏昌(現ソフトバンク二軍打撃コーチ)は、仰木が近鉄監督を退任した92年に現役を引退。野球評論家を1年間務めた後、仰木に請われ、オリックスで初めてのコーチ職を務めることになった。

 通算2038安打、87年には首位打者にも輝いたシュアな左バッター。その卓越した技術と理論を、仰木は高く買っていた。

 まだ現役時代のことだ。「ちょっと来てくれ」と仰木に呼ばれると、新外国人候補のビデオを見せられ「どう思う?」。一介のプレーヤーに、意見を求めたのだ。

 一軍打撃コーチへの就任要請を受けた当時、新井は41歳。しかし、仰木にとって、若いとか、コーチ経験がないとか、そういった序列や縦社会の理屈など、全く関係ない。

「頼んだぞ」

 一軍の打撃コーチを、専任で務めるのは、新井1人。つまり、指導歴のない、コーチ1年目の新井に、打撃部門を任せたというわけだ。「だから、自分のアイディアとか思いを、最初から出させてもらえた」と、大きなやりがいを感じていた新井が、仰木に強く推薦した1人の若手選手がいた。

「パンチ」と「イチロー」


鈴木一朗」を「イチロー」として売り出したのも“仰木マジック”の1つだ


「誰が見ても、この選手はいいと思います。レギュラーで使わない手はないでしょう」

 それが「鈴木一朗」だった。プロ3年目を迎えたばかりの20歳。身長180センチ、体重71キロと、当時はなんとも華奢な外野手だった。

 仰木も、ハワイでのウィンター・リーグを視察して、その高いポテンシャルに着目した。宮古島キャンプやオープン戦を通して「こいつはええぞ」とマスコミにも積極的にアピール。シュアなバッティング、のびやかな動き、守っても強肩、しかも俊足。無名の若手が感じさせる可能性に、仰木も完全に惚れこんでしまった。

「イチローの実力を認めたんですね。これはブレークするから、使い続ける。仰木さんは、やれると思ったらずっと使うんです」

 イチロー抜擢の経緯を間近で見続けてきた横田昭作・現オリックス球団本部長補佐は当時、広報部員だった。仰木は、若きレギュラー候補を売り出すことで、オリックスの“変身”をアピールする。その中で、ある奇抜なアイディアを繰り出してきた。

「鈴木」という、日本人によくある苗字では、ちょっと目立たない。この逸材を売り出すために、仰木がひらめいたというプランは「イチロー」というカタカナでの登録だった。

 横田は、広報部として「面白いアイディアだなと思いました」と即座に賛同した。ただ「1人だけだったら、違和感があるじゃないですか。そこを配慮したんでしょうね。仰木さんがうまかったのは、そこですよ」と横田。

 確かに「イチロー」という前例のないカタカナ登録とはいっても、まだほとんど実績のない、無名の鈴木一朗という選手では、ただの物珍しさだけで、話題も途切れてしまう。

 そこで仰木はもう1人、このプランに組み入れることにした。パンチパーマやユニークな発言で、そのキャラクターが際立ち、仰木がすでに「スポークスマン」として指名していた、当時5年目の外野手・佐藤和弘だった。

「パンチ」と「イチロー」

 2人同時に、登録名をカタカナにする。すると、メディアの注目は、まず言動が目立つ「パンチ」に向く。そのついでに「イチロー」も露出する。そうすれば、活躍して目立ち始めたときに「仰木監督が絶賛していたあの選手だな」と思い出してくれる。

 そうしたマスコミ対応も、仰木はお手の物だった。そして、仰木の目論見は見事に的中した。それどころか、仰木の想像すらはるかに超えた大ブレークを果たし、日本中にイチロー・フィーバーを巻き起こすことになるのだ。

重視したアシスト役


一番・イチローのアシスト役を務めた二番・福良淳一(左)と仰木彬監督


 一番・イチロー、二番は当時33歳のベテラン・福良淳一(前オリックス監督、現・育成統括ゼネラルマネジャー)だった。

 福良は右打ちやバントなど、チームバッティングをそつなくこなせる。堅実な二塁の守備でも、その年に二塁手連続無失策守備機会836の日本記録を達成。まさしく仰木野球には、不可欠なプレーヤーだった。

 イチローという、打って走れる若きスターとの一・二番コンビ。ただ、その意図を仰木から説明されたことは一度もなかったと、福良は笑いながら説明してくれた。

「ホントに何も言われたことがない。練習でも、ゲームでも、会話という会話、したことなかったと思うよ」

 それは、仰木からの信頼の証でもある。福良なら、イチローの良さや、さらなる能力を、きちんと引き出してくれる。それは、新井に対しても同じだった。近鉄時代、大石大二郎(元オリックス監督)が一番、新井が二番を務めていたが、新井に対して、直接の指示も、サインもなし。

「大石と2人でノーサインでした。それは、プレーヤーとして、信頼されていたということなんでしょう」と新井。仰木は、やれると確信しているからこそ、新井にも福良にも、全面的に託していたのだ。

 仰木は、イチローに対しては、出塁したら「いつ走っても構わない」と告げていたという。つまり、盗塁に対しては「グリーンライト」。だから福良は、イチローに対して「走れないときだけ、サインをくれ」と要望した。

 イチローから、フラッシュサインが出たら、福良はその時、最初から打って出る。しかし、それがなければ、イチローの動きや、相手の守備隊形や保守の警戒ぶりを見ながら、打たずに状況を見る。

 そうした難しい制約のかかった中で、通常のプレーができる選手など、なかなかいない。福良は94年、114試合出場で打率.301をマーク。そのとき、イチローの打率は.385だから、何とも恐ろしいコンビでもあった。

「あのときのメンバーは、個々で考えられるというかな、レベルが高かったですよ。スタメンでも、途中から行くメンバーでもね」(福良)

 当時、仰木の組む打線は「日替わりオーダー」「猫の目打線」と揶揄されることもあった。相性、球場、調子によって、前日に本塁打を打った好調な選手ですら、翌日にはスタメンから外すことがあり、就任1年目の94年には、130試合中、121試合で違ったオーナーを組んだ。

 そんな中でも、一番・イチロー、二番・福良のコンビは、130試合のうち90試合で組まれた。イチローが一番を務めたのは110試合で、残る20試合での二番打者は6人も使っている。

 翌95年、福良は6月に右膝十字靱帯断裂の大けがを負ったことで、シーズン中盤以降の二番打者は、入れ替わり立ち替わりの7人を起用。どれだけ仰木が、福良というイチローへの“アシスト役”を重視し、信頼していたかが分かるだろう。

 そうした仰木の大胆な選手起用や戦略が実り始め、オリックスは常に上位争いを繰り広げる。チームをけん引するイチローの打棒も止まらない。仰木1年目の94年、6月の大阪・日生球場での近鉄戦で、イチローの打率が「4割」を超えた。

かけた言葉は「ケガをせんようにやれよ」


阪神淡路大震災が発生した95年。右袖には「がんばろうKOBE」のワッペンを着け、リーグ優勝をつかみとった


 イチローという若きスーパースターの誕生に、取材も殺到した。広報にとっては、かつてない大反響に、うれしい悲鳴だった。当時、まだ携帯電話やメールがない時代。取材申請は、球団への電話とFAXだった。

 試合を終え、遠征先のホテルに帰ると、ホテルに届いたメッセージとFAXは、これまでならドアの隙間から滑り込まされていたが、イチローへの取材依頼が相次ぎ、その申請書類などがドアの隙間から入り切らず、横田の部屋の前には、毎晩、数センチの束となって積まれていたという。

 そんな日本中の注目を浴びる中でも、イチローは打ちまくった。94年、史上初のシーズン200安打超えとなる210安打を放ち、打率.385で首位打者とパのMVP。

「イチロー」は、その年の流行語大賞にも輝いた。球団の観客動員も、当時の球団史上最高となる140万7千人をマーク。まさしく、仰木の演出したイチロー旋風が吹き荒れた1年だった。

 その年は2位に終わったが、仰木には確かな手ごたえがあった。野手ならイチロー、田口壮藤井康雄、投手でも佐藤義則野田浩司星野伸之。投打ともに多彩なタレントがそろい、若手、中堅、ベテランのバランスもよくチームがうまくかみ合っている。

 これなら、優勝できる――。

 勝負の2年目を迎える、その矢先だった。95年1月17日、本拠地・神戸に壊滅的な被害をもたらす「阪神大震災」が発生したのだ。

「絶対に勝つ。その強い思いはあったと思いますよ。戦力では、やれる自信はあったと思う。でも、口では選手に『震災が……』とは言わなかったと思います。ただ、自然とそういう流れにもっていくのは、うまかったです」

 横田が証言するように、仰木は「神戸のために」といった、感傷的な言葉を使って、全体ミーティングを行ったりすることなどは、一切なかったという。

 福良も「それ、よく聞かれるんだけど、ほんとに、そういうのはなかったんですよね」と証言する。

 キャンプインは、1月17日の震災から、わずか2週間後。避難先や、片付けの終わらない自宅から、キャンプ地の沖縄・宮古島へ、各人がそれぞれの都合に合わせて向かった。テレビを見ながら、被害のないキャンプ地で野球をやっていることへの罪悪感すら、選手の中には、あったという。

 焦り、葛藤、迷い。

 そんな選手たちに、仰木はただ「ケガをせんようにやれよ」。意気込みすぎず、入れ込みすぎず。その巧みな手綱さばきで、95年の戦う態勢を築いていく。

「ここで逃げたら、神戸の球団ではない」という宮内義彦オーナーの強い意向で、オープン戦も予定通り、本拠地・神戸で開催。本拠地のグリーンスタジアム神戸の近くにも仮設住宅が建てられ、その仮の住まいから、被災者たちが球場に通い、オリックスに声援に送った。

「がんばろうKOBE」のワッペンを、ユニフォームの右袖に着けて戦い続けた95年、6月に西武を抜いて首位に立つと、トップを快走。最終的には2位のロッテに12ゲーム差をつけ、11年ぶりのリーグ制覇。オリックスとして、初の優勝を決めた。

黄金期を作り上げ、去ってからは低迷期へ


96年は前年に叶わなかった地元・神戸でリーグVを達成しての胴上げ(写真)。日本シリーズでも巨人を下して日本一に


 翌96年には、リーグ連覇を果たし、巨人を倒して日本一。イチローというタレントを見出し、育て上げた仰木は、オリックスの黄金期を作り上げた。

「本人もさることながら、仰木さんもすごいですよね。『鈴木』というままだったら、どうだったんだろうと思ったりしますよ。イチローは、絶対にレギュラーになる、絶対にやる。その確信はあったでしょうけどね」

 その横田の指摘は、何とも興味深い感がある。平成の時代が終わりを告げようとしていた19年3月、イチローも28年の現役生活に幕を閉じた。日米通算4367安打、19年にわたってプレーしたアメリカでも「ICHIRO」の名前は定着している。これが「SUZUKI」ならどうだったのか。ちょっと、想像がつかない。

 その「ICHIRO」を、メジャーに送り出したのも、仰木だった。選手の能力を存分に引き出す手腕には、常に定評があった。野茂英雄長谷川滋利吉井理人、田口壮ら、メジャーにチャレンジした男たちは、仰木の薫陶を受けた選手が多い。

 野茂が、体全体を大きくひねって投げる、独特の「トルネード投法」に対し、批判する外野からの声を、仰木は一切無視し、コーチ陣にも「触るな」と厳命。イチローも、右足を揺り動かしながらタイミングを取る「振り子打法」に対して、フォームの矯正や手を加えることなど、一切しなかった。

 そうして「個」を尊重しながら、その一方で、実力をシビアに見極め、勝利という目的に向かって、最善の手を打つ。8年のオリックス監督時代にはAクラス6度。ただ、イチローのメジャー挑戦を容認し、イチローがいなくなった01年は4位。その年を最後に名将はユニフォームを脱いだ。ラストゲームとなった10月5日の近鉄戦(神戸)で、仰木を両球団の選手たちが胴上げした。

 その後、仰木のいなくなったオリックスは、低迷を続ける。仰木が日本一に導いた96年以降、00年代に入ってから、オリックスは一度も優勝をしていない。

 その低迷期に、球界再編の口火を切ったのは、オリックスだった。04年のシーズン途中に発覚した近鉄との合併構想に端を発し、10球団・1リーグ構想で突き進もうとした経営者サイドと、12球団維持を訴える選手会側の対立がシーズン中も続き、9月には史上初のストライキも断行された。

 最終的に12球団維持、楽天の参入、ダイエーからソフトバクへの譲渡。オリックスと近鉄の球団合併も当初の計画通りに実行された。

 その大混乱の中、仰木のもとへ、再び監督就任の要請が入る。

「オリックス」と「近鉄」が合併して、05年からスタートする「オリックス・バファローズ」という“新球団”の初代監督だった。

「新井、手伝ってくれ」

 仰木から電話を受けた新井は、受話器の向こうで、驚愕していた。

 本当に、やるつもりなのか――。
 
 仰木の“命がけの戦い”が、始まろうとしていた。

(次回、4月15日公開『オリックス・バファローズ監督編』に続く)

取材・文=喜瀬雅則 写真=BBM


【オリックス・バファローズが『ありがとう平成シリーズ』開催】
オリックス・バファローズが、平成最後のホームゲームにあたる4月27日(土)〜29日(月・祝)に行う埼玉西武ライオンズとの3連戦で「ありがとう平成シリーズ」と題し、“平成”を振り返るイベントを開催する。

4月29日(月・祝)は、オリックス・ブルーウェーブ、近鉄・バファローズ、オリックス・バファローズを率いた平成を代表する名将、故・仰木彬元監督の生誕の日。この日、オリックスの監督・コーチ・選手は、ブルーウェーブ時代のユニフォームに仰木彬監督の背番号『72』を着け、気持ちを一つに平成最後の試合を戦う。

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週刊ベースボール編集部

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