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平成助っ人賛歌

なぜフィルダーは25歳で来日して、26歳でメジャー本塁打王になったのか?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

開幕すると本塁打量産


低迷する阪神の救世主として期待されたフィルダー


 とんねるずの石橋貴明と巨人クロマティのツーショットだ。

 平成元年の『週刊ベースボール』1989年9月11日号で、そんな懐かしい写真を見つけた。当時、高視聴率を叩き出し若者からカリスマ的な人気を得ていた新進気鋭のお笑いコンビ、とんねるずと、巨人助っ人史上屈指の実力と知名度を誇るクロマティ。背番号49が『とんねるずのみなさんのおかげです。』にゲスト出演したりと交流があった二人だが、平成が始まったばかりのこのシーズン、クロウの打率4割への挑戦が球界の話題を独占していた。

 規定打席の403打席到達時も4割をクリアしていたものの、8月22日のヤクルト戦で4割を切り、最終的に打率.378で首位打者とMVPを獲得。当時の週べでも「4割クロウの意外な苦悩」という特集が組まれ、雑誌『ニューズウィーク』に「4割だって日本人が打つと、もっともっと高い評価を受けるはずなのに、外人はいつも当たり前と受け止められる。シラケちゃうよ」」なんて不満をぶっちゃけ、一騒動起こすクロマティの様子が報じられている。

 その同じ号に掲載されたのが、『「週べ」ほっとHotインタビュー』のセシル・フィルダーである。平成が始まったばかりの日本に、25歳の若さで降り立った188センチ、101キロの巨漢スラッガー。87年、88年と2年連続の最下位に沈む村山阪神の救世主として期待されたのは、ブルージェイズの4年間で通算31ホーマーを放ったフィルダーだった。

 あのランディ・バースの背番号44を託され、安芸キャンプでは場外アーチを連発。ブルージェイズ時代は控えで「試合に出られなくなってイライラし、家族にも迷惑をかけた。試合に出られる機会が与えられるから日本行きを決意したんだ。毎日出ることができるんだから……」と切実に語るも、オープン戦では変化球に対応できず“季節外れの扇風機”と酷評されてしまう。

 しかし、開幕すると4月に3本、5月に8本と徐々に本塁打を量産。6月22日のヤクルト戦では2打席連続の19号、20号を放ち、47打点とともに2部門でラリー・パリッシュ(ヤクルト)に並びリーグトップに立つ。7月には月間MVPも受賞。「クレバーな男だよ。自分で狙い球を絞るんだが、それがピタリと当たる」と石井晶打撃コーチも絶賛する男は、東京ドームの看板直撃弾や横浜スタジアムでの160メートル級の場外アーチをかっ飛ばす一方で、恐妻……いや愛妻家としても知られ、ワイフがぐっすり寝ている間に息子プリンス君(2007年にMLBで本塁打王)の朝食を作り食べさせるパパの顔も。四番を張り、“セス”のニックネームでチームにも溶け込み、特に大洋戦では16本塁打と無類の強さを発揮した。

日本投手への不満が思わぬ形で噴出


本塁打王争いでトップに立っていたが……


 前述の週べHotインタビューは、8月28日時点で36本塁打とトップを走る最中に収録され「一番世話になっているのはオカダ(彰布)サン。相手ピッチャーの球種とか、いつも教えてくれるんだ。グレートなリーダーだよ」「ルーキー・リーグ時代に175メートルの特大アーチを放ったことあるよ」とご機嫌に語る一方で、勝負を避けられての四球の多さを嘆き「アメリカじゃ、あれだけ四球を出したら、間違いなく監督に怒られる。とにかくあの“かわすピッチング”ってやつには面食らうし、不満もたまるね」なんてチクリ。結果的にこの日本投手への不満が思わぬ形で噴出してしまう。

 9月14日の巨人戦(東京ドーム)の3回表、第2打席で水野雄仁から空振り三振を喫した直後、苛立ってバットをグラウンドに叩き付け、はね返ったグリップエンド部分がフィルダーの右手を直撃。その後も打席に立ち続けるも、試合終了後に病院で「右第5中手骨骨折」と診断されてしまう。出場機会を求め、オレはこんなもんじゃないと証明するために来た日本でつかみ取った本塁打王獲得のチャンス。現に38本でトップを走っている。なのに、あと一歩というところで無念のドクターストップだ。結局、来日初年度に打率.302、38本塁打、81打点、OPS1.031と素晴らしい成績を残すも、チームの監督交代もあり、1年限りで退団。フィルダーは翌年から米球界に復帰する。

メジャーでスーパースターに


デトロイト・タイガース時代の92年、日米野球で来日した(右は阪神・仲田幸司


 だが、ここからがサクセスストーリーの始まりだ。26歳で迎えた90年、阪神タイガースではなく、デトロイト・タイガースと契約すると、いきなり51本塁打、132打点というすさまじい成績で打撃二冠に。翌91年も2年連続で本塁打、打点のタイトル獲得と瞬く間にメジャーを代表するスラッガーとして定着する。

 日米貿易摩擦の影響をアメリカで一番まともに受けたといわれる、かつての自動車都市・デトロイトが唯一喜んだ“日本からの輸入品”とまで称賛された大砲の存在。週べ91年8月19日号では、フィルダーの直撃インタビューが掲載されているが、日本球界のことを聞かれるのにいささかうんざりした様子で「阪神が勝てない理由? そんなことあまり気にも留めてないね」とあっさり。すでにメジャーのスーパースターの仲間入りを果たしたプライドをにじませた。

 平成が始まったばかりの30年前、セシル・フィルダーの野球人生を大きく変えた、たった1年の日本生活。なお、デトロイト時代、クラブハウスのフィルダーのロッカーには、富士山の前を新幹線が通過している日本の絵葉書が1枚貼られていたという。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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