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プロ野球1980年代の名選手

山本功児 落合に声をかけられロッテ移籍で変わった風向き/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

代打で結果を残すほど……



 1984年に巨人からロッテへ移籍した山本功児。すでにプロ9年目、33歳となるシーズンで、ベテランの域に差し掛かりつつあったが、まるで新人に戻ったかのように、ひたむきに野球に打ち込んでいった。キャンプで飛ばし過ぎて中盤に両足の太ももが張るアクシデントもあったものの、開幕から落合博満らとクリーンアップを形成。長くチャンスに恵まれず、控えに甘んじてきた一本足打法の左打者が、ついに真価を発揮する。

 小学生のときに父親から左用のグラブを渡され、「野球選手は左利きに限る」と言われて左に転向。中学のときには、すでに身長180センチはあったという。エースで四番、そして主将も務め、まだ当時は無名だった三田学園高へ進んだ。三田学園高は優秀な人材を集める3年計画で甲子園を目指しており、その熱意に惹かれての入学だった。

 1年生から一塁を任され、3年の春にはセンバツに出場して準決勝に進出、夏にも準々決勝までコマを進める。その秋のドラフトで南海から3位で指名されるも、法大へ。兄がレギュラーになれなかった大学のレベルを確かめるためだったという。社会人では補強選手として都市対抗に出場2度、そしてドラフト5位で25歳を迎える76年に巨人へ。だが、一塁には王貞治がいた。王と同じ左打者で、一本足打法の新人が、連続本塁打王が13年で途切れたばかりだったとはいえ、その王と定位置を争わなければならないのは、不運だったといえるだろう。

 ただ、王とは違って中距離打者。長嶋茂雄監督も信頼を置いて、淡口憲治柳田俊郎原田治明らと“左の代打カルテット”として一軍に定着。79年には代打で2本塁打、15打点、打率.395、王が欠場すると6試合に「四番・一塁」でも出場して、2本塁打、5打点、打率.333と結果を残した。

 翌80年オフに王は引退したが、続く81年には同じ一塁手の松原誠を大洋から補強され、最終的には親友でもある中畑清が三塁から一塁へ。勝負強い代打の切り札という“定位置”は変わらなかった。その翌82年は代打で2本塁打、3打点、打率.389。代打として結果を残せば残すほど、レギュラーが遠ざかっていくようにも見えた。そんな83年、「ロッテに来なよ」と声をかけてきたのが落合。三宅宗源とのトレードでロッテ移籍が決まったのは、そのオフのことだった。

 人生どういうわけか、逆風ばかりが吹き続けることがある。そんなときは、知恵を絞り、努力を重ねて、いい結果を残したところで、それすらも逆風に味方する。ヨットであれば、帆をたたんで錨を下ろしていればいいだろう。だが、プロ野球の世界では、逆風の中でも休むわけにはいかない。ロッテへ移籍するや否や、まさに風向きが変わった。

好打と堅守で中軸に


 バレンタインデーには誕生日と数字の並びが同じ1225個のチョコレートが届き、

「巨人では多くて100個くらいだったのに」

 と驚きを隠せなかったが、追い風はチョコレートだけではない。就任1年目の稲尾和久監督は、落合を一塁から三塁へ、有藤道世を三塁から外野へと配置転換。開幕から「三番・一塁」で先発出場、その後は落合と有藤に挟まる五番打者が多くなり、ポイントゲッターとして代打として鍛えられた勝負強さを発揮していく。

 6月30日の阪急戦(西宮)では4安打の固め打ちもあり、最終的には初の規定打席到達でリーグ9位の打率.301。巨人時代から定評があり、自信もあった一塁守備ではダイヤモンド・グラブに選ばれた。以降2年連続で規定打席到達にダイヤモンド・グラブ、そしてロッテも2年連続2位。攻守の中軸としてロッテの躍進に貢献した。

 その後は年齢的な部分もあって再び代打に。87年6月13日の近鉄戦(ナゴヤ)では初の代打逆転満塁本塁打を放つなど、勝負強さは健在だった。コーチ兼任となった88年オフに現役を引退して、そのまま指導者に。2年間の二軍監督を経て、99年から2004年までは監督として指揮も執っている。

写真=BBM
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