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プロ野球回顧録

【平成阪神年代記】天国と地獄……。限りなく強く、限りなく弱く

 

平成年代、阪神は暗黒時代からスタートを切った。しかし1998年から2001年までの4年連続最下位の後、闘将・星野仙一監督の就任で一気に変わった。新元号ではどうなるのだろう。暗黒時代へ再び沈み込むのか、それとも一気に浮上するのか。

一筋の光明、1992年


シンカメ・コンビ(背中が新庄、奥が亀山)が大活躍し92年は優勝争いも


 平成元年、1989年は2年連続最下位の後のシーズンだった。前年に大騒動の末、バースが退団し、掛布雅之が引退。チームの弱体化が進む中、5位に入るのがやっと。2期目の村山実監督は、わずか2年でユニフォームを脱ぎ、翌90年から40歳の中村勝広が指揮を執ることになった。しかし、そこから2年連続最下位。暗黒時代にどっぷりつかった。

 92年、中村監督は思い切って若手起用に舵を切る。象徴が、早大の後輩であり、チームリーダー・岡田彰布に売出し中の若手・亀山努を代打に送る采配だった。当然、岡田は反発したが、亀山がハッスルプレーでチームを鼓舞し、新風を吹き込む。さらに外野に新庄剛志も登場。プレーだけでなく、“今風”の言動も人気となり、“シンカメ(カメシン)・ブーム”となった。投手陣も仲田幸司湯舟敏郎野田浩司ら若手が台頭。彼らが推進力となって優勝争いの主役となったが、最終的には2位に終わっている。

 9月11日のヤクルト戦(甲子園)では9回裏、八木裕がレフトスタンドへ。サヨナラ弾かと思われ、八木は歓喜のホームを踏んだが、ヤクルト側の抗議でフェンス上部に当たった二塁打となった一打もあった。この試合は延長15回引き分け。首位ヤクルトと僅差だったこともあり、ファンの間では“幻のホームラン”として語り継がれる。

 そのオフ、課題は攻撃力と考え、若きエース候補、野田を放出してまでオリックスから松永浩美を獲得するも4位。しかも、翌年からスタートしたFA制度のため、わずか1年で松永がダイエーへ。オリックスでの野田の急成長もあり、ファンから怒りの声が沸き上がった。

 95年、最下位に沈む中、シーズン途中で中村監督が休養。藤田平コーチが監督代行となり、翌96年は正式に監督となった。しかし“鬼平”とも言われた藤田監督の厳しい指導に、92年の躍進の主役であった亀山、新庄が反発。バラバラとなったチームで勝てるはずもなく、さらに球団フロントの衝突もあって96年途中、大騒動の末、藤田監督は途中休養。チームも2年連続の最下位で終わった。

 97年にメジャーの名将・スパーキー・アンダーソンの招聘に動いたが、かなわず。急きょ後任となったのが85年の日本一監督、吉田義男だったが、5位、6位に終わり、2年で退団。ここで球団は同年までヤクルトの監督をしていた名将・野村克也を三顧の礼で口説き落とし、新監督に据えた。就任初年度の99年は、キャンプで新庄を投手に挑戦させるなど話題もたっぷり。序盤首位にも立って、関西を大いに沸かせたが、最終的には3年連続最下位。00、01年も浮上はならず、連続最下位で退任した。

猛虎復活はなるのか


2003年9月15日、本拠地甲子園で優勝決定


 この後を受けたのが、01年まで中日の指揮を執っていた星野仙一だ。星野監督は就任直後から熱い言動で、長い暗黒時代で“負け犬根性”が染みついた選手たちに勝利への執念を植え付けていった。対巨人の開幕戦連勝後、チームは勢いに乗り、序盤は首位を走る。しかし、日韓サッカーワールドカップでスケジュールが変則になったあたりから失速を始め、後半戦は故障者続出。最終的には4位に終わった。

 ここから星野監督はさらに手綱を締め、大胆な補強に乗り出す。広島をFAした金本知憲、メジャーから復帰の伊良部秀輝、トレードでは日本ハムから下柳剛も獲得した。内部異動も含めてだが、なんと28人の選手、コーチが整理され、26人が入れ替わる、すさまじいばかりの大改革だ。キャンプ直前のミーティングでは、星野監督がこう檄を飛ばした。

「俺は勝ちたいんや!」

 この年、阪神は序盤から飛ばし、今度は失速もしなかった。エースの井川慶は最多勝、最優秀防御率、赤星憲広が盗塁王、今岡誠が首位打者。ほか投手では伊良部、下柳、打者では金本、矢野輝弘アリアス。移籍組、生え抜き組がうまくかみ合い、大独走で18年ぶりの優勝を飾った。野村監督時代にまいた種ももちろんあったが、わずか2年で長年染みついたチームの悪しき体質を変え、頂点に立たせた手腕は見事と言うしかない。しかしながら日本シリーズでダイエーに3勝4敗で敗れた後、星野監督は健康上の理由もあって退任。

 続いて登場したのが、岡田監督。現役時代から勝負事に対し、明確な理論と独特の嗅覚を持った指揮官は、1年目は4位に終わるも翌05年は2年ぶりの優勝。二塁から三塁に今岡をコンバートし、二塁には藤本敦士、遊撃には鳥谷敬で固定。四番の金本を軸にした打線もダイナミックさを増した。何より“JFK”と言われたジェフ・ウィリアムス藤川球児久保田智之の勝利の方程式は見事だった。

 その後、2位、3位の後、再び頂点に立つかと思われたのが、08年だ。打線では金本、投手陣は藤川を中継ぎから抑えに回した新JFKの活躍もあって、一時は独走となったが、結果的には巨人に最大13ゲーム差からの逆転を許し、2位に終わった。

 これで岡田監督は退任。その後を真弓明信監督が受け、2年目の10年はマートンの214安打もあって終盤まで首位を争っての2位となったが、翌11年の4位で退任。金本の連続試合出場のストップ、矢野(燿大に登録名変更)の“引退試合未遂”、マートンの造反など、かつての暗黒時代もちらほら散見した3年間となった。

 さらに、和田豊、金本知憲と指揮官が変わったが、優勝には届かず、再びグレーの色に包まれ始めている。18年には01年以来の最下位。金本監督は退任し、矢野二軍監督が昇格した。

写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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