週刊ベースボールONLINE

プロ野球1980年代の名選手

横田真之 闘魂と猛練習でレギュラーにしがみついた“豪打球神”/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

新人王より自身の打率3割



 どういうわけかコレクションを好む男性は多い。これは古今東西、大人であれ子どもであれ、変わらないのではないかという気さえする。違いがあるとすれば、各自のコレクションに対する執着心と、それを支えられる経済力くらいだろう。

 1980年代の少年たちがコレクションに並々ならぬ執着心を燃やしたものは、いわゆる“ガチャガチャ”で手に入れるキャラクターの(消えない)消しゴム、ポテトチップスの“おまけ”でついていたプロ野球選手のカード、そしてそれ以上に、ビックリマンチョコの“おまけ”でつけられていたシールだった。特にビックリマンのシールは“おまけ”にとどまらず、シールだけ抜き取ってチョコレートを捨てる子どもが続出。飽食が当たり前になりつつあった時代とはいえ、社会問題にもなった。

 そのビックリマンチョコを販売していたのがロッテ。プロ野球でロッテといえばオリオンズだ。そのビックリマンの野球バージョン“スーパーオリオンシリーズ”で、豪打球神、というキャラクターのモデルとなったのが横田真之だった。

 ドラフト4位で85年にロッテへ。初めてのキャンプでは二軍スタートだったが、オープン戦で外野のレギュラー候補だった高橋忠一が肩を脱臼したため、開幕一軍が巡ってくる。そして、ファンだったアントニオ猪木に負けず劣らずの“闘魂”と猛練習でレギュラーにしがみついた。

 器用なタイプではなかったものの、攻守走にスキがなく、一本足打法からのミート力も抜群で、巨人での現役時代は“打撃の神様”と呼ばれた川上哲治も絶賛するほど。自分のペースで打てるように始動を早くして、トップの位置から最短距離でバットを出すことで確実にミート、センター方向へ打ち返すことを心がけた。そして1年目から124試合に出場。阪急の熊野輝光や高知の明徳高、駒大でチームメートだった日本ハム河野博文らと新人王を争い、最終的には熊野との一騎打ちに。だが、それよりも、

「自分の(打率)3割を意識していた」

 と振り返る。打率.3005で迎えたシーズン最終打席は、凡退すれば打率.2998となるギリギリのライン。やや弱気になったというが、初球が死球となって打数も安打も変わらず、3割を超えたままシーズンを終えた。新人王こそ熊野に譲ったものの、ロッテは2年連続2位。外野のベストナインに選ばれた。

2年目には長嶋に続く快挙も


 だが、翌86年は、どっぷりと“2年目のジンクス”にはまりこんだかのように、

「焦りで打撃を崩してしまった」

 と、オープン戦から絶不調。あわや開幕二軍という残り2試合で5安打を放って、どうにか一軍に残ると、シーズンでは2年連続で打率3割に到達して、同じく2年連続ベストナイン。それまでルーキーイヤーに打率3割をクリアした新人は9人いたが、そこから2年連続3割となると、長嶋茂雄(巨人)に続くプロ野球2人目の快挙だった。

 ロッテはロッテでも、ビックリマンチョコは爆発的な人気を維持した一方、オリオンズは低迷期に突入し、本拠地である川崎球場の観客動員数も低迷を続けた。90年代には「テレビじゃ見れない川崎球場」という、いささか自虐的なコピーで打ちだしたCMも効果なく、ついに千葉への移転を表明。それでも、かつて大洋が横浜へ移転したときのような反対運動が起こることもなかった。

 ただ、そんな時代のロッテ、そして川崎球場を象徴する選手の1人だったことは間違いない。93年に中日、95年に西武へ移籍して現役を引退したが、忘れられない試合として振り返るのが、川崎球場で迎えたルーキーイヤーの開幕戦と、その川崎球場のラストゲームだ。新人ながら開幕スタメンで迎えた第1打席は頭が真っ白になって見逃し三振に倒れたが、その6年後、いつものような消化試合のダブルヘッダー第2戦で決勝のソロ本塁打。だが、

「悲しかったですよ」

 と語る。薄暗い川崎球場の照明でも、その全力プレーは確かに輝いていた。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング