昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 柴田勲のドラッグバント
今回は『1966年11月7日増大号』。定価は70円だ。
日本シリーズは4勝2敗で巨人が南海を下した。
MVPは2本塁打、13安打で打率.556の巨人・柴田勲。相手のエース、
渡辺泰輔をカモにし、10打席連続出塁、7打数連続安打もあった。
王貞治、
長嶋茂雄もさすがの活躍をしたシリーズだが、ポイントになったのは、柴田に代表される「足」だった。
第1戦では、捕手・
野村克也が手首を痛めているという情報があったので、しつように盗塁をしかけ、南海の戦意を削ぐ。
1勝1敗で迎えた第3戦では、0対0で迎えた5回表、二死三塁から柴田が意表を突いたドラッグバントを投手・渡辺の右に転がし内野安打で、三走を生還させた。
このプレーをして、「日本シリーズの分岐点」とする解説者も多かった。
一方、歓喜の陰で
広岡達朗が引退か、あるいはトレードされるのでは、という話になっている。球団の功労者・広岡だが、
川上哲治監督との確執が根深く、完全に孤立していた。
確執のきっかけは、64年、広岡が本誌に寄稿した「巨人軍の内幕」。プレーイング・コーチだった広岡が随所に川上采配批判が入った記事を書き、掲載されたもの。
川上監督は激怒。水面下で広岡の放出に動き、サン
ケイとのトレードがほぼ決まりかけた、という。
しかし、この動きに気づいた広岡が正力オーナーに「巨人を出されるくらいならユニフォームを脱ぎたい」と直訴。結果、正力の鶴の一声で残留が決まった。
渦中の広岡は、記者の質問に答え、練習に行ってバッティング練習をしていたら「一軍の邪魔になるからやめてくれ」とコーチに言われた話などを明かした。
また、川上野球について、
「リモコン野球。選手をボタン一つで動かす、選手側の意見などまったく無視したやり方です」
と語っている。
ただ、この人が損だと思うのは、その後の話をじっくり読むと、だから川上野球がダメと言っているわけではなく、それも勝つための一つの方法とは認めている。
最初に、厳しい言葉で自分の意見をスパッと言ってから、じっくりその理由を説明する手法のようだが、必要以上に誤解されることも多かっただろうと思う。
チーム内紛話と言えば、阪急の西本騒動も載っていた。この話はもっと内々のことだと思っていたが、大々的な報道合戦もあったようだ。
阪急の
西本幸雄監督は、秋季練習の初日、選手たちにこう言った。
「来シーズンも私が監督を引き受けることになった。そこで私は監督として、諸君から本当に信頼されているかどうか知りたい。投票用紙を配るから、私を信頼する者は〇、そうでない者は×を記入し、提出してもらいたい」
前代未聞、自ら申し出た信任投票である。
直ちに投票を行った結果、〇が32票、×が11票、白紙が4枚だったという。7割は支持したことになるが、西本監督は、
「不信任が11人もいては監督を引き受ける自信がなくなった。長い間苦労をかけたが、今日限りで阪急のユニフォームは脱がせてもらう」
とあいさつし、そのまま自宅に帰ってしまった。
その後、コーチ陣が西本宅を訪れ、翻意を要請するも拒絶。球団側も大慌てで協議し、岡野社長が直接話し合うことになったが、物別れ。新聞は、退団が決定的と報じた。
ここで小林オーナーは、
「西本君以外の監督は考えていない。1カ月かかっても2カ月かかっても説得せよ」
と球団フロントに厳命。その後の話し合いで、西本はオーナーの熱意に負け、残留を決めた。
小林オーナーの話が結構いい。
「なぜ西本君があんな行動に出たか不可解です。11票くらいの不信任票でやめるなんて。私も社員に投票させると、西本君以上の支持率は得られそうもないと思うのだが」
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM