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プロ野球1980年代の名選手

ランス 打率最下位の本塁打王はなぜ翌年チームを去ったのか?/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

ジョンソンと仲良く来日


広島・ランス


 1986年オフ、広島の“ミスター赤ヘル”山本浩二が現役引退。70年代に始まる黄金時代を長く支え続けたというだけでなく、そのラストイヤーですら126試合に出場して27本塁打を放った主砲の引退で、チームに巨大な穴が開くことは誰の目にも明らかだった。

 その穴を埋めるべく、3年ぶりに広島が獲得した外国人選手がランディ・ジョンソンリック・ランセロッティだ。ただ、後者は本名が長いため、入団後すぐに登録名がランスに。ここでは、このランスを中心に紹介していくが、この2人、共通点が多いだけでなく、日本でのキャリアも似ていた。

 もともと年齢も同じで、ともに大のビール好き。2人ともジャイアンツのAAA級フェニックスから入団し、中米スカウトのフィーバー平山による発案で、日本の野球に慣れるべく来日前にミニキャンプを張って、73年から約4年、ロッテでプレーしていたラフィーバーから日本の野球についてのレクチャーを受けてから来日した。

 広島のマンションも隣で、遠征では同部屋。いつも一緒で、当然、仲も良い。ランスはゲンを担ぐタイプで、ヒゲを剃ったり、伸ばしたりしていて、結果的にはヒゲのイメージが定着したが、ジョンソンもヒゲをたくわえていて、ヒゲ面まで一緒。そして、ほぼ同時期に退団していった。

 ただ、ジョンソンは内野手で右打者、そしてヒットメーカー型だったのに対して、外野手で左打者のランスは典型的なプルヒッターで、長距離砲だった。棒立ちともいえる構えからの強烈なアッパースイングは代名詞ともいえるが、オープン戦では開幕4試合で打率.500。徐々に安定感は崩れていったが、シーズンが開幕すると、その本領を発揮する。

 4月14日の中日戦(ナゴヤ)で初本塁打を放つと、その中日3連戦と巨人との3連戦(後楽園)の初戦となった17日まで4試合で5本塁打。18日こそ本塁打はなかったものの、19日には苦手と思われた左腕の角三男からも本塁打を放った。ほとんどの打球が右方向へ飛んでいくため、28日から30日の阪神3連戦(甲子園)では内野陣が右方向に偏って対応する“ランス・シフト”も。6月9日の大洋戦(広島市民)から16日のヤクルト戦(神宮)まで6試合連続8本塁打もあった。

 最終的にはリーグ最多の114三振も、3年連続の三冠王を狙う阪神のバース、旋風を巻き起こしたヤクルトのホーナーらを抑えて、39本塁打で本塁打王に輝いている。

わずか88安打で本塁打王に


 だが、特筆すべき記録は39本塁打でも、114三振でもないだろう。シーズン470打席に立って、わずか88安打。単打と本塁打は、ともに39本と同数だ。三振か本塁打か、という打者は少なくないが、確率は良くないが当たれば本塁打というのが、ここまで極端な打者は珍しい。なお、三塁や二塁、遊撃と守備位置が固定されないながら規定打席未満で打率.319と安定感を維持したジョンソンの一方で、ランスの打率.218は規定打席に到達した中でリーグ最下位だった。

 来日2年目の88年は1月30日に再来日。2月1日に始まったキャンプで苦手の左投手を克服するべく流し打ちの猛特訓も、「アッパースイングを直す気がなかったら使えん」という阿南準郎監督とバトルが勃発する。

「打率を上げる努力はするが、フォームを変えるつもりはまったくない」

 それでも、7月21日の大洋戦(横浜)では、左キラー、特に外国人の左打者に強い永射保から左前打を放つなど、キャンプの猛特訓も実を結びつつあるようにも見えた。だが、代打を送られると風呂に入って帰宅する、スタメンを外されるとベンチでマンガを読んで反発するなど、“不良外国人”ぶりも目立つようになっていく。そして、故障もあって8月にジョンソンが退団すると、ついに不満が爆発。球団に申し入れて、翌9月に退団した。

 なお、この2年間で優勝したチームに強く、通算58本塁打のうち巨人から16本、中日から13本を稼いでいる。

写真=BBM
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