オリックスの監督、コーチ、選手全員が4月29日西武戦(京セラドーム)で背番号72を着ける。同日は名将・仰木彬氏の生誕の日。『72』は同氏が着けた番号だ。そんな仰木氏が「監督」として活躍した「平成」が幕を閉じる前に、“名将”の栄光の歴史を『近鉄編』『オリックス・ブルーウェーブ編』『オリックス・バファローズ編』の3回に分けて、週刊ベースボールONLINEで振り返っていく。 新生オリックスの船出
近鉄、オリックスの両球団で監督経験のある仰木彬氏。新生オリックス・バファローズの“初代監督は”、この人しかいなかった
仰木彬の腹心・
新井宏昌は、監督を退任した仰木とともに2001年にオリックスを退団。その後、03年からは、福岡ダイエーで一軍打撃コーチを務めていた。
小久保裕紀(前・侍ジャパン監督)、
井口資仁(現・千葉
ロッテ監督)らを擁する、強力な「ダイハード打線」に、さらなる磨きをかけ、後にメジャー移籍を果たす
川崎宗則を不動のレギュラーに育て上げた。オリックス時代にも
イチローのポテンシャルを見出し、コーチとしての理論と指導力には、監督の
王貞治も一目置き、絶大の信頼を置いていた。
実は、新井が福岡ダイエーのコーチを務めていた当時、仰木は生活拠点でもある福岡で、肺ガンのために闘病生活を送っていた。入退院を繰り返す仰木のもとへ、新井はたびたび見舞いに訪れており、仰木の闘病している事実は、王にも新井から報告していたという。
その仰木からの電話だった。
「知っていて、仰木さんは連絡してきた。知っていたから、手伝わないといけないと思ったんです」
この人は、命を賭けて闘うつもりなんだ――。新井は、仰木の覚悟を即座に理解した。
現役時代、さらに監督時代と、新井は長く仰木のそばにいた。仰木の引き立てがあったからこそ、新井は「名コーチ」としての評判を得ることができたともいえる。
だからこそ、戻らないといけない。仰木にとっては“最後”になるかもしれない闘いを、そばで、最後の最後まで支えることが、最大の恩返しにもなるからだ。
「どちらのことも、どちらの選手も知っている。うまく球団を出発させる監督は、仰木さんしかいなかったでしょうから」
そう思っていた新井は、仰木の体調のことを知りながらも、新生オリックス・バファローズをスムーズに船出させ、そのかじ取りができるのは、仰木しかいないと感じていた。
「妻の体調があまりよくない状況なので、関西へ戻りたい」
新井が明かした“退団理由”だった。ただ、これは決して、オリックスへ復帰するための口実ではない。新井の妻も当時、闘病生活を送っていたといい、この取材を通し、新井が自ら、当時の内幕を明かしてくれたことを付記しておきたい。
同一リーグのライバル球団への移籍を認めるためには、
ソフトバンクにとっても、組織としての大義名分が必要なのだ。
「それならば、仕方がないな」
それは王の“暗黙の了解”でもあった。ソフトバンクを退団した新井は、仰木の参謀役でもある一軍ヘッドコーチに就任した。
グラウンドで死んだら、本望や
清原和博(巨人)を口説き落とすなど、周囲を動かすその力は、仰木監督の人望そのものだった
当時、
阪神で二軍守備走塁コーチを務めていた
松山秀明も、仰木からの要請を受けると、迷わずオリックス復帰を決断している。
「監督になられる前から、体調が悪いというのを、僕らも知っていましたし、仰木さんをカバーするために戻りました。監督の負担を少しでも減らせるよう、それが目的で戻ってきたんです」
松山も、かねてから仰木に目を掛けられていた一人だった。PL学園高では、清原和博と
桑田真澄と同学年で、松山が主将だった。そのリーダーシップもさることながら、野球をよく知り、堅実なプレーをこなす上に、ガッツもある松山は、仰木好みのプレーヤーの一人でもあった。
「グラウンドで死んだら、本望や」
松山は現役時代、仰木から何度となく、そう聞かされたことがあったという。仰木のもとへ戻ると決意したときに、松山の心中を去来したのはその「仰木の言葉」だったという。
「変な話、それを感じたんです。本心だったんでしょうね」
それでも、仰木のふるまいは“不変”だった。新生・オリックス・バファローズとして初めてのドラフト会議を前に、全国的には無名の存在だった逸材、トヨタ自動車・
金子千尋(現・北海道
日本ハム)を自由獲得枠での指名を確実にしていたが「一番いい選手に行かない手はない」と東北高のエース・
ダルビッシュ有(現シカゴ・カブス)に、競合覚悟で1位指名に乗り出そうと主張し、話題を呼んだ。
さらに、仰木の本領発揮ともいえる言動で、スポーツ紙やテレビを連日、にぎわせていた。
清原よ、俺のところに来い――。
巨人で活躍の場が減少していた清原和博に「関西へ帰ってこい」と呼びかけたのだ。当時、スポーツ紙でオリックス番を務めていた私のもとにも、仰木にまつわる仰天の噂が、複数の筋から聞こえてきた。
仰木が、岸和田にいる。
菓子折りを持った仰木が、清原の実家がある大阪・岸和田を何度となく訪問していたという。清原のオリックス入りを口説くため、両親のもとへ足しげく通っていたのだ。留守のときには、家の前に立ち、両親が帰ってくるのを、ずっと待ち続けていたというのだ。
仰木が指揮を執った05年には実現しなかったが、清原は翌06年、その「遺志」を受け、巨人を退団すると、現役最後の3年間をオリックスでプレーした。
これも“仰木マジック”
2005年の沖縄・宮古島での春季キャンプではイチロー(写真左、当時・マリナーズ)を呼ぶなど、新球団を盛り上げた
05年の沖縄・宮古島キャンプには、仰木の要請で、当時マリナーズでプレーしていたイチローも現れた。わずか3時間滞在の日帰りという強行スケジュールの中、練習に参加している。合併球団を盛り上げるために、あらゆる手段を繰り出す。これも「仰木マジック」だ。
ただ、合併球団でプレーする当の選手たちは、そのチームカラーの混じり具合に、しっくり来ていなかったところがあったという。
「オリックスはおとなしい。近鉄は、はっちゃけている。やっぱり2つに分かれる。秋季練習をやってみても、それは感じました」
当時、近鉄からオリックスに移籍した
大西宏明(現・関西独立リーグ・堺球団監督)は、そう証言する。どことなく、違和感がぬぐえない日々が続いたが「みんなで、うわーっと何かをするとか、そういうのは本当になかったですね」と大西。結束を呼び掛けるような、ありきたりのミーティングなどはやらない。それも変わらぬ、仰木のスタイルだ。
新生・オリックスの開幕となる3月26日の西武戦。大西は「三番打者」に抜擢された。西武の開幕投手・
松坂大輔との相性がよく、PL学園高3年夏、横浜高と演じた「延長17回」の一戦でも、大西は松坂から3安打を放っている。
そうした相性、対戦データ、選手の気性。すべてを踏まえた上で、まだレギュラーとは呼べない、プロ3年目の24歳を、開幕戦でクリーンアップの一角に据える。それが、近鉄とオリックスの両球団を優勝に導いてきた、仰木の采配なのだ。
「うわ、俺、今年、これでいけるんやと思ったら、次の日、スタメン落ちでした。最初は、クエスチョンだらけでした。あれ? 俺、何か悪いこと、したかなって」
大西は、仰木流の采配にも、当初はなじめなかったという。当時の中心選手だった
谷佳知の代打に大西が指名され、送りバントを命じられたこともあるという。大西は近鉄時代、オリックス時代の仰木のマネジメント・スタイルを体験していなかった。キャリアの浅い若手選手にとっては、それはやむを得ない。
「申し訳なかったんですけど、そこまで仰木さんのことを知らなかった。名将で、名前は聞いたことはあるけど……くらいで、直観系の方なのかなと思っていたんです」
大西は“仰木の真意”を知ろうと、チームの先輩たちに聞いて回ったという。データを駆使し、あらゆる組み合わせの中から、その日の起用を考える「仰木マジック」のことを、初めて知ったという。
表情に出ないが、内心は熱い。打っても、守っても、そつなくこなせる。そうした大西の持ち味も、仰木はしっかりと把握していた。
その年からスタートしたセ・パ交流戦の最中だったという。練習中に仰木がふと、大西のところへ近寄ってきた。
「明後日、いくからな」
今日でもなく、明日でもなく、もう一日先。そうやって、気持ちを盛り上げさせた上で、試合で一気にスパークさせる。それが、大西のようなタイプには効くのだ。
「必死こいて、準備するじゃないですか」と大西。その仰木の狙い通りに活躍した翌日に「大西は貪欲なファイターやから」という仰木の談話を、大西は新聞紙上で目にした。
「そういう部分で、見てくれていたのかなと。うれしかったです」
勇退から、わずか77日で……
仰木監督の命を懸けた闘いを、間近で見守ってきた新井昌宏ヘッドコーチ(写真左)
仰木イズムが、また少しずつ、新生・オリックスに浸透していく。そうした日々の熱き戦いが繰り広げられていく中で、仰木の体調は少しずつ、悪化していた。
「僕らの前では、一切見せないですし、選手の前でも、絶対に見せない。本当に、春先は元気にされていましたけど」
松山も、仰木の体力が日に日に落ちていくのを感じていたという。西武ドームでの試合後、ビジター球団はベンチ裏から100段以上ある階段を上がり、関係者駐車場に停まっているバスに乗り込み、宿舎のホテルへ戻っていく。しかし、夏場を過ぎたころから、試合後の仰木にはもはや、階段を上る体力も気力も残されていなかった。
「ちょっと、頼んだぞ」
新井にそう言って、試合中に監督室で横になっていたこともあったという。
ホームゲーム当日、新井は仰木を車で送迎するのが日課だった。
「ちょっと、倒していいか?」
車内で、新井に必ずそう告げてから、仰木は助手席のシートを後ろに下げたという。その角度が、日ごとに深くなり「後半は、フルフラットになっていました」と新井。試合後にはもう、自分の体を支えられないほどに、体力を消耗していた。まさしく、自らの骨身を削って、グラウンドに立っていたのだ。
合併1年目はリーグ4位。仰木は、GMの
中村勝広に後を託すと、監督を1年で辞任した。
勇退表明は9月29日。
それから、わずか77日。
合併球団を、船出させる。その重要なミッションを成し遂げた仰木彬は、05年12月15日、70歳で、この世を去った。
「いつ、どうなるか分からない。受けるときに、そういう覚悟だったんでしょう。その責任は、まっとうされたと思います」
最後の最後まで仰木を支え続けた新井はその後、オリックスで二軍監督、
広島でも打撃コーチなどを務め、67歳になる今季、11年ぶりにソフトバンクの二軍打撃コーチに復帰した。
川瀬晃、
三森大貴ら、かつての川崎宗則のような左の好打者タイプが多く、次代を担う若手打者を、もう一段ランクアップさせるために、球団会長の王が再び、新井を招へいしたのだ。
松山も、新井とともにソフトバンクの二軍で、内野守備走塁コーチとして、若手指導にあたっている。仰木の座右の銘「信汗不乱」は、松山にとって、大事な言葉だ。
流した汗を信じて、一心不乱に野球を追求していく。その“仰木の造語”にこめられた思いを、指導者となった今も松山は、大事にしている。
「仰木さんは、それだけの思いで野球に取り組んでこられた。仰木さんのような能力のない僕らは、遊び半分に野球をやれない。野球人として、命がけで野球に取り組み、この仕事に向き合う。命を賭けて、取り組まないとあかんのですよ」
平成ラストゲームでオリックスナインが背負う72
オリックス・バファローズの“初代監督”を務めた仰木彬氏(写真中央)。奇しくも平成ラストゲームは、その名将、生誕の日となる
松山をはじめ、仰木に育てられた男たちは今、各球団でコーチや監督となり、アマ球界や独立リーグでも指導者を務めている。
高村祐、
村上隆行、
清川栄治、
山崎慎太郎、
福良淳一、新井宏昌、松山秀明、大西宏明。今回、仰木の軌跡をたどる取材で、仰木の思い出を語ってくれた野球人たちは、今もなお、野球界に深く根を下ろし、活躍している。
「今、どの球団にもいるんじゃないですか? ね、仰木さんの教え子ばっかりなんですよ。今、仰木さんの教えが生きている。だから、あのころから、仰木さんのやり方って、ずっと先を行っていたってことなんですよ」
ソフトバンクの一軍投手コーチを務める高村の言葉に、こちらも大きくうなずかされた。
俺についてこい。ごちゃごちゃ言わんと、言ったとおりにやっとけばええんや。かつての野球界は、そうした上からの一方通行の指導法が、半ば当たり前の世界でもあった。しかし、今はその“理屈じゃない”というやり方では、誰もついてこない。
一人ひとりに対して、きちんと指導者が向き合う。そのために選手を見て、言葉で伝える。そうした“きめ細かなマネジメント”でなければ、今の選手は動かない。ひいては、個の集まりでもある組織も動かない。
仰木は、選手たちを実によく見ていた。そこに「データ」という、客観的な指標も駆使することで、選手たちを納得させた。今の時代にも完全にマッチするやり方だろう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
2019年4月29日。
存命していれば、仰木は84歳になっていた、仰木の誕生日にあたるその日の西武戦が、平成の時代にオリックスが最後に戦うラストゲームとなる。
監督、コーチ、選手全員が、仰木の背番号「72」を背負い、ブルーウェーブのユニフォームで、その試合を戦う。
それにしても、平成のラストゲームが「仰木の誕生日」とは、あまりにも出来すぎた演出ではないか。それすらも、平成最後の“仰木マジック”なのかもしれない。
そんなことを、ふと感じたりするのは、なぜだろう。
おう、見とるぞ。
ちょっと高めの、よく通る仰木の声が、天国から聞こえてきたような気がした。
(完)
取材・文=喜瀬雅則 写真=BBM 【オリックス・バファローズが『ありがとう平成シリーズ』開催】
オリックス・バファローズが、平成最後のホームゲームにあたる4月27日(土)〜29日(月・祝)に行う埼玉西武ライオンズとの3連戦で「ありがとう平成シリーズ」と題し、“平成”を振り返るイベントを開催する。
4月29日(月・祝)は、オリックス・ブルーウェーブ、近鉄・バファローズ、オリックス・バファローズを率いた平成を代表する名将、故・仰木彬元監督の生誕の日。この日、オリックスの監督・コーチ・選手は、ブルーウェーブ時代のユニフォームに仰木彬監督の背番号『72』を着け、気持ちを一つに平成最後の試合を戦う。