1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 2人の叔父に背中を押されて
ふだん同い年や年齢の近い仲間たちとキャッチボールを楽しむ小学生が、たまに大人とキャッチボールをすると、多少は手加減してもらっていたとしても、球の速さや重さに驚くことだろう。それは現在も、そして1980年代であっても、変わらないように思える。そのとき、「将来、野球をやれ!」と大人から言われても、多くの少年たちは、それを真に受けることはあるまい。その日は天にも昇る気持ちになるかもしれないが、勉強に追われ、女の子を追いかけているうちに、そんな言葉は忘れ去ってしまうだろう。
だがもし、その大人が、プロ野球で通算400勝を挙げた
金田正一だったらどうだろう。天に昇るどころか、天をも突き抜けるかのような気持ちになることは想像に難くない。ただ、そんな名選手と小学生でキャッチボールができる環境を創造することのほうが難しい気もする。しかし実際に、叔父が金田という環境で育ち、その叔父とキャッチボールをしたことでプロ野球選手を目指した少年が、のちに広島、
日本ハムなどで活躍した金石昭人だった。
とはいえ、プロ野球どころか、アマチュアであっても、そんな“七光り”だけで戦力になるほど、野球は甘くない。叔父と同じ投手だったが、PL学園高ではエースの西田真次(のち真二。広島)に続く2番手で、甲子園のマウンドは踏めなかった。それでもドラフト外で79年に広島へ。その79年に
ロッテから広島へ移籍した
金田留広の“バーター”ともいえる形だった。
この留広は70年代に2度の最多勝に輝いた右腕で、正一の末弟。言うまでもないが、叔父にあたる。だが、当時の広島は“投手王国”。なかなかチャンスは巡ってこず、その貴重なチャンスを生かす実力も備わっていなかった。それでも、正一の「ランニング・イズ・マネー」という教えを実践して、ひたすら走り込む。
恵まれていたのは、2人の叔父だけではなかった。197センチの体躯は、下半身が強化されることによって、時間はかかったものの、着実にプロで通用するものになっていく。長身ながらスムーズな投球フォームで、球速よりもキレとコントロールで勝負した。プロ7年目の85年、ようやく一軍に定着。白星はプロ初勝利を含む6勝にとどまったが、うち5勝は完投で飾り、それが自信につながる。そして翌86年、ついに“投手王国”の先発ローテーションに食い込んだ。
86年に初の2ケタ12勝で優勝に貢献
Vイヤーの86年はエースの
北別府学が最多勝、最優秀防御率の投手2冠でMVP。チームでは18勝の北別府に次ぎ、
川口和久と並ぶ12勝と勝ち星を稼いだだけでなく、序盤は苦しんだ北別府の一方で、防御率は開幕から安定感を維持する。後半戦は11勝1敗と圧倒的な好投を続けた北別府には届かなかったものの、10月5日の
中日戦(広島市民)、10日の阪神戦(甲子園)での2連続完封で巨人の
江川卓を上回り、リーグ2位の防御率2.68をマークした。
西武との日本シリーズでは第4戦(西武)と第8戦(広島市民)に先発。防御率2.40と安定感は健在で、バットでも存在感を発揮する。第4戦では好投を続けるも味方のミスも絡んで8回裏に同点とされて降板したが、2回表に先制の適時打。史上初の第8戦では敗戦投手となったものの、3回裏に先制2ランを放っている。
その後は腰や肩の故障に悩まされ、志願して92年に日本ハムへ移籍。
「広島から来た投手が、こんなものか、と思われるのが嫌だった。無様なピッチングをすれば、自分の評価が下がるだけでなく、広島が笑われ、セ・リーグが笑われる」
と、自己最多の14勝を挙げる。こだわってきた完投は13、うち完投勝利が10。93年からはクローザーに転向して、日本ハム初の1億円プレーヤーにも。テストを受けて入団した巨人で1年だけプレーして98年オフに現役引退。体は満身創痍だったが、
「巨人にチャレンジして正解だった。おかげで燃え尽きることができた」
写真=BBM