1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。 “草魂”が乗り移った“鈴木2世”
「パ・リーグのお荷物」と言われていた時代から初優勝、そして連覇と、長く近鉄を支え続け、通算317勝を積み上げたエースの
鈴木啓示が「ワシは“草魂”から魂の抜けた、ただの草になってしまった」と、唐突にグラウンドを去っていったのが1985年シーズン途中。近鉄は
岡本伊三美監督だったが、打線の破壊力は健在ながら、投手陣は先発の大黒柱が倒れたことで、「打線が爆発した試合に信頼できる救援投手を投入して勝ちを拾っていく」という“特攻ローテーション作戦”を余儀なくされた。
その“救援ローテーション”の柱として、やはり唐突に、プロ5年目のブレークを遂げたのが、鈴木と同じ左腕で、かつて“鈴木2世”と期待を受けた石本貴昭だった。先発完投にこだわった鈴木とは先発の柱、救援の柱と役割は対照的だったが、よく似た投球フォームもあって、まるで鈴木から抜けた“魂”が乗り移り、ふたたび近鉄のマウンドでよみがえったように見えたファンも少なくなかったのではないだろうか。
近鉄が初のリーグ連覇を飾った80年に兵庫の滝川校のエースとして春夏連続で甲子園に出場し、ドラフト1位で81年に近鉄へ。エースの鈴木も同じ兵庫の出身で、
「僕、鈴木さんのモノマネもうまいんですよ」
と胸を張る投球フォームの似た若き左腕が“鈴木2世”と呼ばれるのは自然な流れだったのかもしれない。だが、1年目こそ11試合に登板して、2試合目の先発登板となった7月1日の南海戦(日生)ではプロ初勝利も挙げたが、そこから2勝目までには、長い時間を要することになる。翌82年は一軍登板なし。続く83年には10月21日の阪急戦(藤井寺)でシーズン初登板を果たすも、最終的には両チーム計32点の乱打戦となった試合だったこともあるが、打者7人に対して被安打5、うち本塁打2、5失点と炎上。結局、この1試合だけに終わって、シーズン防御率108.00という数字を残してしまう。
その翌84年も1試合の登板にとどまるも、救援のマウンドと条件こそ同じだったが、4イニング2/3のリングリリーフで無失点に抑えるなど、内容は雲泥の差だった。
そして迎えた85年はリーグ最多の70試合にフル回転。ある日はセットアッパー、またある日はクローザーと、すべて救援のマウンドで規定投球回にも到達して、19勝3敗7セーブ、リーグトップの勝率.864をマークする。救援登板のみの19勝は巨人V9の1年目となる65年の“8時半の男”
宮田征典に並ぶ最多タイで、最多勝のタイトルこそ阪急の
佐藤義則に譲ったものの、最優秀救援投手に輝いた。
真っ向勝負から脱却して
それまでは鈴木と同様に、豪快なフォームから気迫の真っ向勝負を繰り広げていた。スピードには自信を持っていたが、
小野和義ら後輩たちに次々と追い抜かれていく。一軍で投げるためには変化球も必要と頭を切り替えると、スライダーや
シュートを習得。そして、テークバックで後ろに反るクセを修正してモーションを小さくしたことで制球力も向上し、投球の安定につながっていった。
翌86年はクローザーとしての役割が中心となったが、リーグ最多の64試合に投げまくり、8勝32セーブをマークして2年連続で最優秀救援投手に。ただ、8月6日の西武戦(藤井寺)では8回表だけで4本塁打を浴びるなど、通算560本塁打を浴びた鈴木の“2世らしさ”も健在(?)。鈴木が“男がケンカして眉間に受けた向う傷”と語った被本塁打だったが、さすがに“2世”は自らのふがいなさにベンチで悔し涙を流している。
続く87年も3年連続リーグ最多の50試合に登板。ただ、前年までの“特攻ローテーション”は、やはり“特攻”だった。その酷使がたたって球速が下がっていき、3勝7セーブにとどまるなど、成績も失速していった。そして91年シーズン途中に金銭トレードで
中日へ。再起に懸けたが、ついに球威は戻らず。92年オフに現役を引退した。
写真=BBM