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パンチ佐藤の漢の背中!

鹿児島唯一の甲子園優勝投手、元横浜・下窪陽介氏の野球人生/パンチ佐藤の漢の背中!「1」

 

甲子園の優勝旗を初めて鹿児島県に持ち帰ったエースはプロ野球を引退し、現在は国内2位のお茶の生産量を誇る鹿児島県から家業の「お茶」をPRしている。「現役を引退してから別のお仕事で頑張っている元プロ野球選手」をパンチさんが直撃する対談連載、今回は元横浜の下窪陽介さんにお話をうかがいました。

大学3年時に打者転向、社会人6年目のプロ勝負


パンチ佐藤(左)、下窪陽介氏


 鹿児島実、樟南、神村学園など甲子園常連の名門校を擁する鹿児島県。しかし意外や、鹿児島代表が全国制覇を果たしたのは、第86回センバツ大会(96年)の鹿児島実ただ一校だった。

 その鹿児島唯一の甲子園優勝投手が、今回ゲストの下窪陽介さん。「消える」とさえ言われたスライダーを武器に、春夏通じて初の快挙を成し遂げた。

パンチ 下窪君は、センバツの優勝投手なんだよね! あのときは、あれよあれよという間に勝っていった感じ? それとも「俺たち、強えぜ」って感じだった?

下窪 地方大会から、もう負けないっていう感じでした。

パンチ どんなチームだったの?

下窪 守って、最少点で勝つという。自分も抑えることができましたので、1対0とか2対0という感じで、勝ち進んでいきました。

パンチ じゃあ甲子園に出て「やった!」というより全国制覇を目指していたような感じ?

下窪 はい、最初からそうでした。

パンチ そこでそのままプロに行かず、大学に進んだのはなぜ?

下窪 ドラフト3位以上じゃないとプロには行かせないという鹿児島実業のしきたりがあったんです。それで、5巡目という話だったので……。

1996年春のセンバツで中谷仁らを擁する智弁和歌山を決勝で破り、鹿児島県勢初の甲子園優勝


パンチ 日大時代に、ピッチャーからバッターに転向したんだ。

下窪 僕、夏の甲子園で肩を壊してしまいまして。だから日大に行って1年間は、野球をやっていないんです。「もう野球はいいや」っていう気持ちにもなっていたんですが、その後肩が治って投げてみたら、いきなり147キロくらいまで伸びてきて、「まだやれるな」という気持ちになりました。

パンチ いいあきらめが、ちょうどいい休みになったんだね。慌ててやったらダメだったんだ。

下窪 でも、当時球の速いピッチャーが日大にはたくさんいたんです。千葉ロッテに行った清水(清水直行)さんとか阪神に行った吉野(吉野誠)さんとか、プロにも5人くらい行っています。それで3年のとき、監督さんに「お前、野手やれ」と言われました。

パンチ そこから日通に入社したのか。俺らのころは、『ペリカン打線』とか言われていたんだよ(笑)。社会人の思い出はどう?

下窪 社会人は楽しかったです。野球がすごく楽しかった。練習をあまりしないんです。全体練習が終わったら、ほとんどの時間が自主トレ。僕はそれがよかったんじゃないかと思います。自分で「どうやったら打てるか」と課題を持って、自分で考えながら練習することができました。

パンチ それは熊谷組も同じ。下窪君は社会人に6年いたんだね。

下窪 あのときは、社会人野球を辞めようと思っていたんですよ。6年もやったんで、もういいかな、と。そんな年齢で、プロはほぼ無理。それなら野球を辞めて、実家に帰ろうと思っていました。

パンチ なるほど。そうしたらラストチャンス、神様が「勝負してみろ」ってことで、指名されたわけだ。

下窪 はい。それなら、納得いくまでやってみようと思いました。

パンチ 僕もそんな感じだった。30歳までだったら、やり直しがきくから。5年間、勝負してみたいという気持ちで入ったんだ。

ルーキーイヤーはいい感じだったが……


横浜のルーキーだった2007年6月6日のソフトバンク線で柳瀬から打った勝ち越し3点タイムリー二塁打が印象深いという


パンチ で、プロに入ってどうだった?

下窪 自分の中では最初から、いい感じで入れたんですよ。キャンプから一軍に入って、オープン戦でも使っていただいて。

パンチ じゃあ走攻守、なんとかやれる世界だな、と。

下窪 はい、自分の中でいけるかなと思って、シーズンに入りました。実際、そこそこやれたのかなと思っています。ところが2年目、最初のキャンプから二軍だったんです。それで、そこからのモチベーションが、正直「なぜ?」という……。

パンチ 結局、なんでだったの?

下窪 いや、何も分からないですね。それで腐って、練習も「いいや」と思ってしまって……。やれることをやらなかったのには悔いが残ります。

パンチ そう。すねたり腐ったり落ち込んだりしちゃダメなんだよね。そこから引退を……4年で辞めようと踏ん切りをつけたのは、なぜ?

下窪 自分は正直、踏ん切りがついていなかったんですが、急にクビを宣告されまして。

パンチ それはショックだったね。

下窪 ベイスターズはクビになる選手が、二軍の最終戦でスタメンになるという習わしがありまして……。自分はそのとき、スタメンじゃなかったんで、大丈夫だと思っていたんです。いろいろな人の情報からも大丈夫そうだったので、また来年頑張ろうと思ったら、その2日後の夜ですね。

パンチ う〜ん……。で、まず何を考えた?

下窪 いや、もう何も考えられなかったですね。どうしよう、どうしようばかりです。

パンチ そこからこの仕事に就いたきっかけは?

下窪 野球を辞めてから1年ほど、知り合いの会社でバイトをする程度で、ほぼ何もしていなかったんです。なんだかモヤモヤして、やる気が起こらなくて。

パンチ その間は、どうやって自分の気持ちをキープしていたの?

下窪 プラス思考の本だとか、いろいろな本を読んでいました。それから実家に帰って、実家(下窪勲製茶)の仕事を手伝っていました。

パンチ 実家に帰ったら、ホッとしたでしょう。

下窪 やっぱり温かかったですね。

パンチ それで、親父さんが「一緒にやろう」って言ってくれたわけ?

下窪 親父は最初、「なんにもすることがないんだったら、バイトしろよ」という感じだったんです。だから毎日ではなくて、たまに出てバイトして。3カ月ほど経ってから、「なんにもすることがないんだったら、ここで働けば?」と、軽い感じで言われました。

パンチ 親父さんは息子の性格が分かってるから、そういう言い方をしてくれたのかもしれないね。「ブラブラしてんじゃねえ」とかいきなり言われると「うるせえな」とか言っちゃうじゃない。

下窪 はい、そうですね。

パンチ 振り返れば、プロでの一番の思い出は何?

下窪 福岡でのソフトバンク戦で、柳瀬(柳瀬明宏)から代打タイムリーを打ったことですね(07年6月6日)。地元・九州だったので、九州のお客さんの声援がすごく温かくて。それが一番心に残っています。

<「2」へ続く>

●下窪陽介(しもくぼ・ようすけ)
1979年1月21日、鹿児島県出身。鹿児島実高ではエースとして96年のセンバツで優勝、夏も甲子園ベスト8に進む。日大進学後、外野手に転向。日本通運を経て、大学・社会人ドラフト5巡目で07年横浜に入団。背番号9を与えられ、1年目から開幕一軍入りして77試合に出場したが、10年限りで引退。通算成績は96試合、打率.238(34安打)、0本塁打、10打点。現在は故郷・鹿児島に戻り家業の「有限会社下窪勲製茶」社員。


●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=山口高明
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