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プロ野球1980年代の名選手

山下和彦 リードはアリ、バットはナシ? “マムシ”と呼ばれた猛牛の司令塔/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

即戦力と期待されて近鉄入団


近鉄・山下和彦


「毎日が緊張です。とにかく、最少失点でいきたい」

 こう初々しく抱負を語ったのは、1986年の近鉄で開幕戦から2試合連続で先発マスクをかぶった山下和彦だ。まだプロ2年目。4月4日の日本ハムとの開幕戦(藤井寺)が一軍デビュー戦でもあった。この2試合は連敗したが、その後はバットでも存在感を発揮。4月23日の西武戦(藤井寺)では近鉄の全5得点を1人で稼いで、序盤は「山下がスタメンだと負けない」という“不敗神話”までが生まれるほど。24歳となるシーズンだったが、まだまだ正捕手の候補に過ぎない若手。だが、そんな若き捕手は、やがて“マムシ”と呼ばれる司令塔へと成長していく。

 その由来は「地方の遠征でマムシを焼いて食べたから」という説もあるが、もしそれが事実だとしても、あるいは食べたマムシの毒が栄養となって全身に回ったのか、しつこく、そして攻撃的なリードは、まさに“マムシ”だった。

 大分の柳ヶ浦高から新日鉄大分を経てドラフト4位で85年に近鉄へ入団。有田修三梨田昌孝の“アリナシ・コンビ”が長く司令塔の座を争い、あるいは分け合ってきた近鉄にあって、その85年は一軍出場なく終わったが、近鉄ではシーズン途中に大エースの鈴木啓示が突然の引退、オフに有田が淡口憲治とのトレードで巨人へ移籍するなど、激動の1年でもあった。翌86年は梨田の故障もあって開幕マスク。最終的には70試合に出場したが、77試合でマスクをかぶった梨田には届かなかった。続く87年は元旦から始動。

「去年が自信になったけど、今年はゼロから攻めなきゃいけない。開幕から(正捕手として)行くつもりです」

 そして116試合に出場して、故障に苦しんでいた梨田の27試合を大きく上回った。

 もともと、梨田の後継者となる社会人の即戦力と期待されての入団だった。だが、どちらかといえばリードは梨田より有田に近い。打者がのけぞるほどの内角攻めを徹底し、打者からにらみつけられても、

「それで外角が生きる」

 と平然。若い投手に対しては、首を振られても絶対にサインを変えないなどコワモテで接した。一方で、投手の心理を把握するため、一緒に飲みに行くなど普段からのコミュニケーションを大事にして、いかに投手の持ち味を生かすかを考え続けた。逆に、バットを持っては、どこか構えは梨田の面影があり、ほとんど頭の位置は動かず、ミートを重視する意識は感じられたが、その打撃が当時の課題。長打力を秘めながらも安定感を欠いた。

“10.19”の雪辱を果たした89年


 自己最多の117試合でマスクをかぶった88年。近鉄は首位を走る西武を猛追し、優勝の行方は近鉄の最終戦へともつれこむ。いわゆる“10.19”だ。そのダブルヘッダー(川崎)で2試合とも先発マスクをかぶり、第1戦には勝利したが、第2試合では1点リードの8回裏一死、高沢秀昭をフルカウントに追い込み、3番手の阿波野秀幸にストレートを要求したものの、結局、ウィニングショットのスクリューを拾われて同点本塁打。そのまま近鉄は優勝を逃してしまう。

 雪辱を期した翌89年は112試合でマスクをかぶり、規定打席未満ながら自己最高の打率.262、自己最多の20二塁打など、課題だった打撃も好調。自身の打率と近鉄の勝率は見事に比例して推移しており、個人打撃成績に目立った数字こそないものの、そのバットが近鉄の勝敗と相関関係にあったことが分かる。そして、優勝決定試合となった10月14日のダイエー戦(藤井寺)では、ふたたび阿波野とのバッテリーで試合を締めくくって、“10.19”のリベンジを果たした。

 90年代は光山英和古久保健二と正捕手の座を分け合い、近鉄の伝統ともいえる司令塔の“併用制”に。95年から4年間、日本ハムでプレーして現役を引退したが、91年と日本ハム1年目の95年には捕手のシーズン最高守備率1.000を記録している。

写真=BBM
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