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プロ野球1980年代の名選手

津野浩 “新人類”右腕を着実に伸ばした理由/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

軽薄な印象も心には熱い気持ちが



 1980年代がプロ野球の歴史における分岐点だったことは折々に触れてきた。70年代までの球界を引っ張ってきた選手や監督が去っていき、明るさと若さを兼ね備えた新戦力が台頭。高度経済成長期に生まれ、経済の発展とともに自身も成長してきた若者たちは、戦前や戦中、戦後の復興期に生まれたプロ野球選手とは一線を画し、同じ野球でも、まったく違う価値観に基づいてプレーしているようにすら見えた。

 もちろん、この傾向はプロ野球界に限ったことではない。この時代の若者たちは、まったく新しい人類かのように言われた。いわゆる“新人類”だ。当然、プロ野球界の若者たちも“新人類”と呼ばれ、それは新たに球界の盟主として名乗りを上げた西武を中心に、どういうわけかパ・リーグの選手が多かった。そんな“新人類”選手の象徴的な存在は、高知商高からドラフト3位で84年に日本ハムへ入団した津野浩だろう。ちなみに、生まれた65年は、プロ野球界では巨人のV9がスタートしたシーズンだ。

 高卒ルーキーながら1年目から18試合に登板して4勝。現役時代はV9戦士でもあった高田繁監督が就任した2年目の85年には、19歳にして開幕投手を任される。田中富生が開幕投手と思わせておく“奇襲作戦”でもあったが、その4月6日のロッテ戦(川崎)では6回2/3を投げて6安打1失点で勝利投手に。10代の開幕投手が勝利投手となったのは18年ぶりの快挙だったが。風邪による発熱で点滴を打ちながらのマウンドでもあった。

 軽薄な印象でいわれることが多かったが、その内面には、かつての若者たちと同様に熱いものを秘めている。そんなギャップも“新人類”の一面だった。その85年は西武の渡辺久信、南海の加藤伸一らと“19歳トリオ”として騒がれ、3人そろって球宴にも出場。最終的には7勝を挙げた。20歳となった翌86年も開幕投手を務めて勝利投手となり、初の2ケタ10勝に到達。着実に勝ち星を増やしていった。

「球速もコントロールも球のキレも、どれも特別いいわけではなく、『まぁ、そこそこかな』という投手」

 と自己分析する。ただ、4勝に終わった1年目は秘密兵器を隠し持っていた。

「まだ使う時期ではない。もう少し困ったら使おう」

 と封印していたフォークだ。そのフォークを解禁した2年目は7勝と勝ち星を増やしたが、

「チームで一番の勝ち頭になりたい」

 と考えていた19歳の右腕にとっては、満足できる数字ではなかった。3年目に2ケタ勝利に到達したのは、シーズン中に大石清コーチから伝授されたスプリット・フィンガード・ファストボールが自らの投球にハマったため。併殺を取りたい場面で投じると、おもしろいように併殺に打ち取れたという。

87年まで3年連続で開幕戦勝利


 87年も3年連続で開幕投手を務めて勝利投手に。イニングも85年から6回2/3、8回、8回2/3と増やしていく。もっとも気にした数字は勝ち星だったが、

「最低でも7回。5、6回で降板したときは1点に抑えていても“やられた感”があった」

 と、投球回も重視していた。ただ、翌88年は開幕投手を西崎幸広に譲り、2年連続8勝にとどまる。一方で、87年はリーグ最下位だった防御率が、リーグ7位の防御率2.92と一気に躍進。続く89年には自己最多の11勝を挙げた。ただ、日本ハムの低迷期と重なったこともあって、勝ち越しは1度もない。

 90年代は苦しい時代だった。92年から広島中日を経てロッテで現役引退。日本ハムを皮切りに4球団を渡り歩いたが、

「(日本ハムの)オレンジのユニフォームが自分のイメージ」

 と振り返る。ただ、こうも語った。

「高田監督は、1年間を通して働いてほしいと願って(3年連続で)開幕投手を任せたのに、それに応えられる成績は残せなかった。だからエースにはなれなかった」

写真=BBM
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