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プロ野球1980年代の名選手

高沢秀昭 山内監督&落合の“直伝”で打撃覚醒した88年首位打者/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

「手が遅い」打撃から……



「数字は大したことないんだけど、要所要所で顔を出していますよね」

 こう振り返るのは、1980年代、特に後半の低迷するロッテを、バランスの良い攻守走で支え続けた高沢秀昭だ。本人が「大したことない」と語る記録でも球史に名を残しているが、それ以上に「要所要所」の活躍でファンの記憶に深く刻み込まれている。

「山あり、谷あり。いろいろなことがあったので、いま振り返ると、長かったなぁ、と思う。(現役生活)13年の割には、17、18年やったくらい内容は詰まっている」

 北海道の苫小牧工高からドラフト2位で80年にロッテ入団。いきなり「谷」に転がり落ちる。キャンプで腰を痛めると、2年目の自主トレでは右肩も痛めた。一軍では1年目に1試合、2年目には10試合に出場したが、二軍でも試合出場は少なく、2年目のシーズン途中に外野手へ転向する。打撃も伸び悩んだ。言われ続けたのは「手が遅い」ということ。速球に始動を合わせて、変化球が来たら、

「ちょっと止まって、スイングを始める」

 ことを理想と考え、これは最後まで変わらなかったが、当時はバットが出てくるのが遅れ、内角や速球に詰まらされてしまっていた。

 ただ、当時のロッテには卓越した打撃理論を持つ2人の男がいた。1人は、現役時代は“打撃の職人”と評され、打撃に関する熱心すぎる指導で(やめられない、止まらない)“かっぱえびせん”とも言われた山内一弘監督。もう1人は、82年に史上最年少で三冠王に輝く落合博満だ。

 山内監督からは「グリップを前に出せばいい」と言われ、そんな山内監督の指導には「放っておいてください」と言い放った落合は、「右のヒジをヘソの前に持ってくる感覚」と極意を伝授。腕から先に動き、左足が着地する前にグリップを出して、そこから体を回すように対応すると、徐々に結果が出始める。

 3年目の82年にはプロ初安打、初本塁打。翌83年には62試合の出場ながら6本塁打、打率.303を記録して、レギュラーの座を確保した。続く84年は97試合に出場した時点で11本塁打、打率.317と打撃好調。だが、その97試合目、8月11日の西武戦(札幌円山)での外野守備で、左中間への大飛球を背走して好捕したものの、その直後、フェンスに激突、右ヒザ骨折で全治6カ月の重傷を負ってしまう。そのまま札幌に残って手術を受け、2カ月の入院。「山」へ登り始めた矢先に、若手時代よりも深い「谷」へと転がり落ちていった。

88年“10.19”で近鉄の夢を打ち砕く


 長いリハビリを経て、85年に一軍復帰。28日の日本ハム戦(後楽園)で復帰後の初本塁打を放ち、二塁を回った頃には涙が止まらず。この試合で勝利投手となった村田兆治も右ヒジ手術から完全復活を遂げたばかりだったが、お立ち台で「今日は高沢に話を聞いてやれ」と語り、さらに感激したという。骨折の影響で、しっかり右足に体重を乗せて打つことが次第にできなくなったが、左右に体を揺らして右足に体重が乗ってから球を見て打ちにいくようにして克服した。

 ハイライトは復帰4年後の88年だ。リーグ最多の158安打を放ち、打率.327で阪急の松永浩美をしのいで首位打者に輝いたが、ロッテは最下位に沈む。そしてシーズン最終戦が本拠地の川崎球場に近鉄を迎え撃つダブルヘッダー“10.19”だ。敗れれば近鉄の優勝が決まる第2試合、1点ビハインドの8回裏一死から同点のソロ本塁打。そのまま試合は延長10回、引き分けに終わる。日本中のファンが見守る大一番で、最下位のチームから近鉄の夢を打ち砕く意地の本塁打だった。

 89年オフに高橋慶彦ら3人とのトレードで水上善雄とともに広島へ移籍。守備固めや代打がメーンとなるが、金田正一監督に請われて91年5月に金銭トレードでロッテへ復帰した。翌92年オフに現役を引退するまで、

「(野球を)楽しいと思ったことはなかった」

 と振り返る。日々、数字や結果の出る世界で困難と戦い、自分の打撃を模索し続けた男だ。

写真=BBM
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