週刊ベースボールONLINE

プロ野球1980年代の名選手

藤田浩雅&熊野輝光 阪急の明るいニュースとなった2年連続新人王/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

攻守で最後の優勝を支えた藤田


阪急・藤田浩雅(左)、熊野輝光


 1988年10月19日、プロ野球界に衝撃が走った。近鉄が優勝を懸けて、川崎球場でロッテとのダブルヘッダーに挑む、その日。その激闘も衝撃的な結末を迎えるのだが、それ以上に衝撃的だったのは、阪急のオリエント・リース(現在のオリックス)への球団譲渡だ。この88年は、同じパ・リーグの名門である南海の球団譲渡がシーズン中からささやかれ、9月には正式に発表された。

 ただ、数年前から身売り話が報じられ、球団経営で赤字が続いていただけでなく成績も低迷していた南海の一方で、70年代の黄金期ほどの勢いこそないものの、低迷しているとはいえない阪急が歴史を終えるとは、誰も予想していなかったのではないか。実際、結果的に84年のリーグ優勝が阪急にとって最後の栄光となったが、85年からも3年連続で勝率5割をクリアしている。

 将来を期待させる明るいニュースもあった。84年から2年連続で新人王に輝いたのは阪急のルーキー。Vイヤーの84年が正捕手の座を確保した藤田浩雅だ。その後も藤田はクローザーのアニマルが繰り広げた荒々しいパフォーマンスの“餌食”となり、『珍プレー好プレー』で取り上げられるなど、明るい(?)ニュースを提供し続けた。そして、85年は熊野輝光。「平凡な暮らしを続けていきたい」という妻を説得して28歳で入団したオールド・ルーキーだった。

 藤田は静岡の御殿場西高から関東自動車を経て、ドラフト3位で83年に入団。強肩が武器だったが、打撃で伸び悩む。1年目は6試合の出場に終わり、秋のキャンプでは、

「バットを見るのが嫌になるくらい」

 振り込みを続け、フォームを改造した。翌84年には衰えを隠せなくなっていた正捕手の中沢伸二に代わってマスクをかぶるようになると、目立ったのは強肩ではなく、苦手なはずの打撃だった。最終的には98試合の出場で83安打を放ったが、そのうち22本は本塁打だ。そんな打撃に隠れたとはいえ、捕手としての守備率.992、盗塁阻止率.423はリーグトップを記録。走者が出ると、

「走ってこないかな」

 と手ぐすね引くほど強肩には自身があった。84年は新人王に加え、ベストナイン、ダイヤモンド・グラブもダブル受賞している。

 リードはエースの山田久志ら大ベテランに鍛えられた。山田とのバッテリーでは、配球を考えたのは主に山田だ。カーブのサインに対しては遅いカーブ、速いカーブと投げ分けたという。

 リードの醍醐味を覚えたのが星野伸之とのバッテリーだ。星野はMAX135キロのストレートにカーブ、フォークの3種類しかなかったが、西武の清原和博をして「星野と藤田のバッテリーは読みづらい」と言わしめている。阪急ラストイヤーの88年からは徐々に出場機会を減らしたが、その88年6月18日の南海戦(西宮)ではプロ野球5人目となる代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放つなど、意外性のある長打も健在だった。

鉄壁の外野陣に食い込んだ熊野


 84年のロサンゼルス五輪で主将として金メダル獲得に貢献し、ドラフト3位で翌85年に入団したのが熊野だった。福本豊簑田浩二ら鉄壁の外野陣に中堅手として食い込むと、1年目から118試合に出場。4月17日、18日の日本ハム戦(後楽園)、19日の西武戦(平和台)で3日連続3ランを放ち、本塁打を放った試合の勝率が高いことから“熊野権現”とも呼ばれた。

 スランプに陥った時期もあったが、福本の「球が前に飛んでりゃええやないか」の一言で吹っ切れると、最終的には規定打席に到達して、打率3割には届かなかったものの、新人王とベストナインに。翌86年は苦手の外角を克服すべく猛練習も、本来の打撃を見失って失速したが、続く87年には早めにタイミングを取ることで復活。シュアな打撃を取り戻した。

 藤田も熊野も、オリックス時代の91年オフに巨人へ移籍。94年に熊野はテストを受けてオリックスへ復帰してオフに引退、巨人に残った藤田は96年限りで引退した。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング