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プロ野球1980年代の名選手

星野伸之 なぜ、MAX135キロが“速球”に見えたのか?/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

捕手が素手で捕る“事件”



「三振も取れたし、自分のボールが、それほど遅いとは思っていなかった」

 と、旭川工高時代を振り返るのは、オリックスの星野伸之だ。ドラフト5位で1984年に阪急へ入団してから、ブルペンで自分の倍くらい年齢の離れた投手と、同じタイミングで投げたときに、キャッチャーミットに届くまでの時間が違うことに初めて気づいたという。ストレートの球速はMAX135キロで、120キロ台を計測することが多かった。90年には、すっぽ抜けて外角にはずれたカーブを捕手の中嶋聡がミットではなく素手で捕ってしまう“事件”もあった“遅球王”だ。

 もっとも速い球を投げるのは誰か。プロ野球の投手たちは例外なく、この議論にさらされる運命にあるといえる。球速はスピードガンで計測され、数字として冷徹に記録される。だが、その議論は尽きない。それは、数字だけではない、さまざまな要素が速球には存在し、それらを含めての“球界最速”なのであり、スピードガンだけでは測れない、と考えられているからだろう。

 突き放してしまえば、ありふれた議論なのだが、これに「星野伸之」と答えた選手がいた。奇をてらって答えたわけではないだろう。近鉄の梨田昌孝は、「金縛りみたいになって、バットを振れなかった」と証言している。ただ、プロになったばかりの18歳の若者にはショックだった。それを救ったのは足立光宏コーチだった。現役時代は阪急黄金時代を支えたサブマリンだ。

「お前は力を入れたらダメなピッチャー。なるべく力みをなくして“フォーム”で投げろ」

 もともと制球が良かったことも幸いしたが、

「ピッチングでもランニングでも、力を抜く、ということを意識しました。力を抜いて軽く投げたほうが、いいボールが行くんですよ」

 90キロから100キロほどのスローカーブを織り交ぜるなど、130キロのストレートを「速い」と感じさせる工夫も怠らなかった。

「その日のMAXが130キロなら一歩手前の、たとえば125キロで追い込む。そして最後に130キロを投げれば、当たってもファウルにしかなりません。ほかに変化球もあるわけで、その5キロの差は大きいでしょう」

 フォームと腕の振りが同じ、というのが大前提だが、投げる瞬間の力加減だけでスピードを変え、ゆったりとしたフォームでビュンと投げ込むから、ボールにキレが生まれて、打者はタイミングが取れないのだ。

オリックスのエースとして


 オリックスのエースとして95年からの連覇で投の主役となった姿も記憶に新しいが、阪急からオリックスにチームが変わると同時にエースの座を継承したといえる。一軍初登板の2年目から徐々に勝ち星を伸ばし、奪三振も積み上げて、4年目にはフォークも習得して初の2ケタ11勝。5年目が阪急ラストイヤーの88年だ。エースの山田久志もラストイヤーだったが、チーム最多に並ぶ13勝。オリックス元年となった翌89年には15勝6敗でリーグトップの勝率.714を記録した。その後も安定して勝ち星を稼いで、オリックスを去る99年まで2ケタ勝利は11年連続を含む12度、開幕投手は7度を数える。

 細身で端正なマスクで女性人気が高く、苗字から“星の王子様”と呼ばれて、

「自分にはイメージが良すぎます」

 と笑うが、芯は太い男だった。FAで2000年に阪神へ移籍し、ペナントレースでも打席に立つことになったことで、チームメートだったイチローから「星野伸之だと思って打席に入っちゃダメですよ。ケン・グリフィー(マリナーズほか)になりきって打席に入れば大丈夫です」とアドバイスをもらったエピソードもある。

 02年限りで現役引退。幾多の名勝負を繰り広げてきた左腕は、最も印象に残る対決に、西武の清原和博との対決を挙げた。

「最後はフォークのサインに首を振って、インコースの真っすぐで打ち取った。あれは、ちょっと気持ち良かった」

 意識して直球だけで打ち取ったのは、この打席だけだったという。

写真=BBM
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