昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 桑田に三原監督が嫌がらせ?
今回は『1967年1月30日号』。定価は60円だ。
給料番付が出ていた。1位は史上初の3000万円プレーヤーとなった
巨人・
長嶋茂雄だ。盟友・
王貞治も2200万円と大幅アップ。
ともに本人の要求額どおりだったらしいが、球団はもっと出すつもりだったという。それをあとで聞いた2人は「僕らは人がいいな」と苦笑いしていた。
昨年までのトップ・
金田正一はダウンし、1725万円。ただ、成績の割にダウンが少ないのでは、と他選手からは不満が上がっていた。
パ・リーグ最高額は、優勝した南海でホームラン王、打点王を手にした
野村克也。現状維持の1472万円だった。尾張久次スコアラーがつくった尾張方式による貢献度があまり高くなかったらしい。
悔しさもあっただろうが、野村はプロ入り初めてという一発更改をし、「もう一度、三冠王に挑戦や」と語り、自宅に庭にバッティングマシンを設置し、連日打ち込みをしていた。
大洋では
桑田武の契約更改が複雑怪奇になっていた。
第1回目は10パーセントのダウン。桑田は保留も2回目にサインするつもりでいたが、今度は25パーセントダウンと言われ、なんとか3回目で10パーセントに戻してもらったというが、それが4回目では15パーセントダウンと言われた。
「どうなっていたんだ」と憤った桑田。ウワサでは、桑田を嫌っていた
三原脩監督の嫌がらせとも言われる。
当時は各球団に1千万プレーヤーがだいたい一人。
広島とサン
ケイにはおらず、広島は
古葉竹識、
興津立雄の600万が最高だった。
毎年巨額の赤字が出ていた近鉄は生き残り策をかけ、積極的に動く。
前回触れたスカウト全員クビもそうだが(そもそも3人しかいなかったらしい)、独立採算制に向け、大胆な策を次々打っていた。
ただ、球団が大赤字とはいえ、近鉄グループはプロ野球の親会社の中でも屈指の大企業だ。
佐伯勇オーナーもまた、経営者としての手腕が高く評価されていた超一流企業人である。
削減のみではなく、南海、阪急に声をかけ、関西に屋根付き球場をつくるプランも練っていた。
ただ、同時に1リーグ制移行の推進派であり、その場合、最初に消える球団とうわさされていたのが近鉄。不思議といえば、不思議だ。
果たしてどのような絵図を描いていたのか。
では、また。ゴールデンウイークの10連休中は時々アップします。ただ、週刊ベースボールは合併号にせず、5月1日も発売いたしましたので、よろしくお願いします。
<次回に続く>
写真=BBM