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プロ野球回顧録

金村義明が語るブライアント「No.1の打撃。別格でしたね」

 

いまはなき近鉄バファローズの歴代外国人は、そのチームカラーを反映するように、個性あふれる実力派が多かった。なかでも強烈だったのが、80年代のドン・マネーリチャード・デービスラルフ・ブライアントという系譜。彼らとチームメートだった金村義明氏が当時の記憶を語った。

奇跡の4打数連続弾


89年、優勝のビールかけに歓喜のブライアント


 1988年、デービスが大麻不法所持で逮捕、アメリカに強制送還させられたことで、中日の二軍でくすぶっていたブライアントを獲ることになったんです。なぜあれほどの才能が二軍で埋もれていたかといえば、当時の球界は一軍登録枠が2人だったのでウエスタンでプレーせざるを得なかったんです。

 それにしても、88年というのは「10.19」のイメージがあまりにも強いですけど、近鉄の外国人史という意味で振り返ってみると、デービスのスキャンダルをブライアントが吹き飛ばした年だったんですね。

 ブライアント獲得の経緯としては、当時のピッチングコーチで中日出身の権藤(博)さんが古巣と話をつけて、すぐに仰木(彬)監督、中西(太)さんとともに西宮球場に出向いて阪急対中日のウエスタンの試合を視察。上空を向いてそっくり返って空振りしているブライアントを見て、太さんは「獲れ。ワシが直す」。その一言で近鉄への金銭トレードが決まったんです。

 近鉄移籍後のブライアントは、僕らと一緒に早出特打ちをずっとやり続けた。ですからガイジンというより、同志というべき存在でしたね。年俸も最初は7〜800万円だったと思います。そこから這い上がって、近鉄を「10.19」のドラマへと導いてくれたのがブライアントでしたね。

 同じ年にはもう一人ベンジャミン・オグリビーという元メジャー・リーガーがいた。ブリュワーズ時代の80年には41ホーマーを打ってホームラン王を獲得。来日したときにはすでに30代後半でしたけど、この人がマジメでね。球場に早く来て走っていた。ブライアントは、オグリビーに対しては「サー」付けで接していました。「イエス・サー」「ノー・サー」とね。黒人同士でしたけど、それくらい2人は格が違いましたね。

 オグリビーが88年限りでチームを去って、翌89年には1年前の雪辱を果たすようなブライアントの4連発が飛び出すわけです。すごかったですね。

試合後には肩が上がらず


 あの日の西武球場、首位・西武とのダブルヘッダーは鮮明に覚えています。第1戦の西武先発は郭泰源。0対4で負けていた4回表、46号のソロホームランを打った。西武も1点を追加し1対5となった6回表無死満塁の場面では、相手ベンチの森(祇晶)監督がマウンドまで行って「歩かせてもいい」と指示したボール球を、バットを入りながら47号の同点満塁ホームラン。本人も「自分でも信じられないパワーが生まれた」と振り返っていましたね。

 さらに、8回表には渡辺久信の真ん中高めの真っすぐを上から叩いて、それまで打ったことのないような弾丸ホームラン(48号)で決勝点になりました。

 そして、第2試合では第1打席敬遠のあとの2打席目に高山郁夫さんから2対2の均衡を破る49号ソロホームランを放って、チームも14対4で大勝。この連勝で近鉄は優勝を確かなものにしたわけです。

 あの日の夜は、行きつけの立川の焼き鳥屋に行って、酒の飲めないブライアントはコーラで乾杯したわけですけど、乾杯のときに肩が上がらない。それぐらいアドレナリン満載のバッティング。翌日もう1試合あるので、早くホテルに帰らせ、嫌いな針治療までやれと言いました。

 89年は前年の「10.19」からの流れがありましたからね、しかも西武、オリックスと3チームが1ゲーム差でひしめく前年と同じような展開で、しかも因縁のダブルヘッダー。そこでブライアントが奇跡を呼んでくれました。その年のMVPは当然でしょう。リーグ優勝のときには仰木監督の次に胴上げされたんですけど、いかにチームメートに愛されていたかを物語っています。

 ブライアントは人柄も最高です。苦労人ですからね。近鉄に拾ってもらった。当時はジャネットという恋人を連れてきていたんですけど、彼女も僕らの友達でした。一緒にメシを食いに行きましたし、東京遠征では銀座や、当時のディスコにも連れていきました。そういう意味では、家族的な付き合いでしたね。

 90年には、そこにジム・トレーバーも加わった。博多に遠征に行けば朝方、一緒にラーメンを食べに行くような、そういう仲間でした。バッティング技術に関してはトレーバーもすごかった。来日1年目は3割を打ちましたし、2年目は打点王に輝いた。「ブライアントより金をよこせ」と言ってクビになりましたけどね(苦笑)。

日本の野球をナメなかった


 ブライアントに話を戻すと、東京ドームのスピーカーに当てた一発も僕は見ています。その瞬間、何が起こったのか分からなかった。天井を直撃したあと、勢いあまってセカンド付近に落下しましたからね。東京ドームの竹中工務店の設計者が驚いて、スピーカーを取り外したそうです。物理上、当たらない場所に付けたスピーカーだったのに……基準値を超えてしまう、計り知れないパワーでしたね。

 三振も多かったですね。89年から6年連続シーズン100三振以上、93年には204三振を喫しました。腹が立ったときにはバットを太ももを支点にへし折るので、メーカーのミズノの担当者からは「あれだけはやめさせてくれ」と言われました(苦笑)。木もそんなにないんやし、やめとけとブライアントには何度も言い聞かせたのに、ついやってしまうんですよね。1キロ近いバットを普通はヒザで折れないですけど、しょっちゅう真っ二つに折っていました(笑)。

 それにしてもブライアントがあそこまで活躍できたのは、マジメに僕らと一緒に練習したからですよね。変なプライドも何もなかったですし、日本の野球をナメていなかった。日本で成功する外国人の必須条件をブライアントは満たしていましたね。

写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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