昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 阪神スカウトの内紛
今回は『1967年2月13日号』。定価は60円だ。
東映・
水原茂監督が1950年
巨人時代から慣れ親しんできた背番号30を81に変えた。
変更は水原自身からで、球団事務所に来た際、「ワシの背番号は81にしてくれ」と軽い感じで言い、職員を驚かせた。
「監督に30はもう古い。メジャーも30以外の監督が増えている。81はハッピーと言って縁起がいい。30番がほしい選手がいたら遠慮なくつけさせてやってくれ」
と水原。ハチ、ピーか。
中日でも
西沢道夫監督が自身の永久欠番でもある15から63に変えている。
背番号話でいえば、南海のブラッシンゲームの背番号が1に決まったが、これまで南海の1は、ピートが2年、ローガンが1年、そして前年は、
井上登が1に変えたが、1年で自由契約になってしまった。実は南海の背番号1が短命のうわさは前からあり、井上は「俺が変える」と言っていたが“玉砕”?した。
近鉄では契約更改でもめ、「トレードに出してほしい」と言っていた
土井正博がようやくサインした。
交渉は6回に及んだが、土井によれば、
「金額だけではない。根本(陸夫)コーチがやめさせられ、
久保征弘さん、
山本八郎さんがトレードに出され、さらにスカウトが3人クビ。球団のやり方が分からないので、その真意を聞こうと思ったら相手にされなかった。新聞は金額のことしか書かないから、世間の人にわずかな金額でごねているという印象を与え、それもたまらない気持ちだった」
という。
小玉明利監督が土井の家を訪ね、直々の説得でようやくサインとなった。
阪神ではスカウトの内紛話があった。
剛腕で知られた佐川直行スカウトだが、65年秋、まったく無名だった
石床幹雄を1位指名も、ほとんど活躍していなかったこともあって、むしろ
藤田平などを獲った
河西俊雄スカウトの評判が上がっていた。
66年秋、二次ドラフト1位の
江夏豊に関しては河西スカウトが担当し、「順調に伸びれば、いずれ阪神を背負う大物になる」と絶賛したが、佐川は、「投手にしてはいかり肩すぎる。それに担いで投げるのが気になるね。もう一つだ。逸材ではないね」。
と言っていた。巧みな話術と情報網、押しの強さで選手や関係者の心をつかみ、球団内の権力を握って豊富な資金を使うこともできた佐川スカウトと、自身の目だけを信じる職人肌の河西スカウト。
佐川が悪い、河西がいい、と言えば簡単だが、必ずしもそうではない。佐川もまた、多くの実績がある名スカウトだった。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM