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プロ野球1980年代の名選手

栗山英樹 選手としても実績ゼロから成功した理由/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

転機はスイッチ転向



 日本ハムの監督に就任することが発表されたのが2011年11月3日。現役引退後は解説者やキャスターとして野球にかかわり、大学で教鞭を振るったことはあっても、指導者経験はゼロだった。その手腕に疑問の声が上がったのも無理はない。だが、就任1年目からリーグ優勝に導き、16年には日本一に。迎えた19年も監督として頂点を目指している。

 ただ、その現役時代も実績ゼロ、テスト生として始まったものだった。現在は日本ハムの印象が上書きされているが、選手としてはヤクルトひと筋だった栗山英樹だ。現在ならノートパソコンやタブレット、スマートフォンといったところだろうが、現役時代は原稿用紙とワープロが必需品。これに日々の出来事やコーチからのアドバイスを記録していた。教員免許を持つプロ野球選手としても話題を集めたが、1980年代はまだまだ高価で一般的ではなかったワープロを必携しているあたりも、この男らしいといえるだろう。

 甲子園のヒーローで、19年に巨人の監督として復帰した原辰徳の母校でもある東海大相模高のセレクションに合格したが、自宅から通える創価高へ入学する。主将でエースとして3年春の都大会でベスト4に進出。夏は西東京大会の4回戦で敗退した。そして、教師を目指して東京学芸大へ進学。偏差値も高い国立大学の野球部は同好会レベルだったが、東京新大学リーグで優勝2度、大学選手権にも出場した。

 全国の壁は高かったものの、かつては慶大、プロでは高橋のスター選手だった評論家の佐々木信也が偶然、練習試合に居合わせたことが、プロのテストを受けるきっかけとなる。だが、西武と大洋は不合格。なんとかヤクルトでプロの道を開き、84年に入団したものの、すぐさまプロの壁にぶち当たった。猛練習を積んでも、ほかの選手には追いつけない。なかなか打球が前に飛ばず、悩みに悩み抜いた。さらにはメニエール症候群によるめまいや吐き気にも襲われる。二軍監督の内藤博文と二人三脚で特打、特守、特走を繰り返す日々。

 転機は、兼任コーチでもあった若松勉の「スイッチに転向したらどうだ?」という一言だった。ベース一周14秒の俊足が最大の武器だったが、これを生かすべく左打ちに挑戦。“小さな大打者”と言われた若松と同様に、変化球に狙いを絞って、

「呼び込めるだけ呼び込んで、体の半分くらいのところで打つイメージ」

 でコンパクトに振り抜く打撃で覚醒。送球に難があったことから内野手から外野手に転じたことも奏功した。メニエール病も集中治療で克服。徐々に出場機会を増やしていった。

89年にゴールデン・グラブ賞も……


 一軍に定着した86年は107試合に出場、主にリードオフマンとして打線を牽引して、規定打席未満ながら打率.301。88年は序盤にケガで出遅れたことが響き、やはり規定打席には届かなかったが、90試合で打率.331を記録。規定打席まで残り33打席すべてに凡退しても3割をクリアする安定感だった。加えて、主に二番打者として20犠打。

「長距離打者が多いから、絶対に刺されてはいけない、と思うとスタートが切れない。走ってもいい、というサインが出ても、ためらってしまう」

 と、盗塁には消極的だったが、俊足は外野守備でも生かされ、中学時代に経験があるバレーボールの回転レシーブを“応用”して打球を拾うなど、球際の強さも武器だった。

 ゴールデン・グラブ賞に輝いた89年がハイライトだ。開幕から中堅のレギュラーを確保して初の規定打席到達。4月は打率.351、5月からは失速したが、これは二番打者に徹したことが理由だ。6月4日の中日戦(神宮)ではプロ野球記録のゲーム4犠打もあり、自己最多の125試合に出場して37犠打を記録した。

 だが、翌90年は69試合の出場に終わり、メニエール病の再発や右ヒジの故障などの不安もあって、29歳の若さでユニフォームを脱ぐ。監督として日本ハムのユニフォームを着るのは、その21年後のことだ。

写真=BBM
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