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プロ野球1980年代の名選手

近藤真一 初登板ノーヒットノーランの舞台裏/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

「明日の先発がいません!」



 1987年8月9日、ナゴヤ球場で行われた中日と巨人の一戦で、高卒ルーキーながら初登板でノーヒットノーランを達成する快挙を成し遂げた中日の近藤真一。ただ、これが歴史的なゲームになる予兆は、まったくなかった。その前夜、3連戦の2試合目までを1勝1分で終えた中日の星野仙一監督は、風呂に入ってリラックスしていたという。

「そこへ投手コーチの池田(池田英俊)さんが入ってきて『明日の先発がいません!』と深刻な顔で言う。『近藤でいいじゃないですか』と僕は何の気なしに言った。池田さんは『高校生レベルを優勝争いに投入していいんですか!』と。僕は『いいじゃん、いいじゃん』。池田さんは渋々OKした」(星野)

 こうして、一軍に昇格したばかりの高卒ルーキーの初登板は決まった。

 享栄高3年で春夏連続甲子園出場。3歳で父親を亡くし、母親に育てられて、

「いつでも母に会えるところにいたい。地元のドラゴンズ以外、考えていません」

 と言い切った。5球団が競合したものの、当たりクジを引いて「近藤、約束どおり、やったぞ!」と叫んだのは星野監督。だが、初めてのキャンプはベストの体重を12キロも超えていて、怒った星野監督から別メニューに回され、毎日300球ほどのノックと走り込みで絞られることになる。開幕は二軍スタート。ウエスタンでは7試合に登板して無傷の3勝、防御率1.29と結果を残し、ジュニアオールスターにも出場した。一軍昇格は8月7日。ただ、のちに星野監督が「部品がないんだから完成品ができるはずがない」と振り返るような、投手陣のコマ不足もあった。

 そして9日。試合前の練習で先発登板を指示されると、地元のナゴヤ球場で先発のマウンドを踏む。足が震えるほど緊張していた。もちろん消化試合ではない。首位の巨人を広島、中日が猛追して、三つ巴の戦いを演じている真っ只中。中日も、相手の巨人も、絶対に負けられない試合だった。

 球種はストレートとカーブのみ。ストレートの球速は140キロ台と、剛速球といえるほどではない。ただ、カーブは大きく曲がるものと速くて小さく変化するものの2種類があり、制球には自信があった。あとは、覚えたてのフォークが使えるかどうか。そしてプレーボール。初回、先頭の駒田徳広を3球三振。これで不安が消えた。カーブが冴えわたり、そのまま三者凡退、2回にはクロマティ吉村禎章を連続三振に。3回には山倉和博に四球を与えて初の出塁を許したが、そこから2者連続三振。4回には四番の原辰徳からフォークで三振を奪った。5回は三者凡退。

「5回が終わったあたりからノーヒットノーランを意識した。なにせベンチに戻ると、みんながやれ、やれってしつこくて(苦笑)」

そして空前絶後の快挙へ


 6回も三者凡退。7回に二失、8回には再び山倉に四球と出塁を許すも、後続を断つ。そして9回一死後、鴻野淳基の緩い三ゴロは落合博満の好守でアウトに。そして「最後は篠塚(篠塚利夫)が、ややボール臭いハチマキカーブを見逃し三振。審判も空気が読めたのかもしれませんね」(星野)。初登板ノーヒットノーランは、もちろんプロ野球で初めての快挙。ゲームセットの瞬間最高視聴率は44パーセントだった。

 だが、のちに星野監督は「僕は打たれてほしかったんです。こんな記録を初登板で作ってしまったら、今後どうなるんだ、と。そうしたら案の定……」と振り返っている。この87年は4勝、翌88年は前半戦の7勝を含む8勝も、その後は中学時代からのカーブの多投によるヒジ痛、上半身に頼るフォームの弊害で肩痛と、満身創痍に。90年代は勝ち星なく、94年に現役を引退した。

 真価を発揮できずに終わったのかもしれない。だが、この快挙の輝きは失われない。のちに星野監督も、懐かしそうに振り返った。

「今後メジャーで素晴らしい成績を残す日本人投手が、どれだけ出てきても、この記録だけは作れんでしょう」

写真=BBM
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