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ライオンズ「チームスタッフ物語」

埼玉西武で要職を兼任する元広島の左腕・広池浩司/ライオンズ「チームスタッフ物語」Vol.01

 

首脳陣を含めて91人――。埼玉西武ライオンズで支配下、育成選手72人より多いのがチームスタッフだ。グラウンドで躍動する選手たちだけではなく、陰で働く存在の力がなければペナントを勝ち抜くことはできない。プライドを持って職務を全うするチームスタッフ。獅子を支える各部門のプロフェッショナルを順次、紹介していこう。

立大から全日空へ就職


埼玉西武・広池浩司球団本部本部長補佐兼チーム戦略ディレクター兼メディカル・コンディショニングディレクター


「私は話しかけやすいのか、歩いていると、多くの方々が声をかけてくださるんですよね」

 広池浩司、45歳。広島で活躍した元左腕だ。1973年生まれだから同級生にはイチロー(元マリナーズほか)がいる。現在は西武で、肩書は「球団本部本部長補佐兼チーム戦略ディレクター兼メディカル・コンディショニングディレクター」。要職を兼任しているのは、それだけ能力が認められている証拠であり、だからこそ、ささいなことでもチームスタッフが広池に相談を持ちかけるのだろう。

「信頼をしていただいている分、何事にも全力で取り組みたい。問題があることは労力を使ってでも解決したいですよね」

 柔らかな笑みをたたえながら、理路整然と言葉を並べる。聡明さがにじみ出ている雰囲気。その人柄に触れると、確かに頼りにしたくなる気持ちが分かる。

 広池の名前を聞いて、ドラフト時に話題になったことを思い出す野球ファンも多いだろう。1998年秋。クジ引きの末、西武が1位で“平成の怪物”松坂大輔(現中日)の交渉権を獲得したときのドラフトだ。

 プロ志望だった広池だが、立大卒業後、全日空に就職していた。

「私が働いているチェックインカウンターまで、東京六大学の同期、高木大成(当時西武)や中村豊(当時日本ハム)、カツノリ(野村克則。当時ヤクルト)らが遠征に行くときわざわざ会いにきてくれたんですよね。『カッコいいね』と言ってくれましたけど、私からしたらプロで戦う彼らの姿がうらやましい。そういったことが少しずつきっかけとなって……」

 決定的だったのは川村丈夫(当時日本石油)が96年アトランタ五輪で投げる姿をテレビで見たことだ。夜11時くらいに、誰もいない羽田空港のカウンター。大学の先輩が世界を相手に躍動する姿を目にし、野球への思いが湧き上がってきた。

「野球への未練を断ち切れないまま全日空で働くのも失礼だと思いましたからね」

 安定した職を捨て、97年秋に広島のテストを受験。しかし、合格はしたが枠の関係で同年秋のドラフトでは指名されず、自費でドミニカ共和国へ。1シーズン、カープアカデミーで武者修行に励み、翌98年のドラフトで広島から8位指名。25歳のオールドルーキーが誕生した。

プロとして12年間生活


99年ドラフト8位で広島入団(後列右端が広池)


 立教高時代にヒジを痛め、投手を断念。立大時代は一度もマウンドに上がることがなかったが、投げない間にケガが完治していた。カープアカデミーで30試合登板するなど“試運転”を経てプロのユニフォームを着たことも大きかった。

「あの経験がなければもっと早くにクビになっていたと思います」

 二人三脚でプロの礎を築いてくれたのは清川栄治コーチ(現埼玉西武巡回投手コーチ)だ。

「合言葉は『ソフトタッチ』。とにかく力を抜いて、体を使って、指先を走らせるイメージで投げることを繰り返しました」

 ただ、5年目まで主に中継ぎとして奮闘したが一軍定着には至らなかった。

現役12年で通算248試合に登板し、9勝12敗1セーブ、25ホールドをマークした


 30歳で迎えた6年目。開幕から二軍暮らしだったが、8月11日のヤクルト戦(神宮)で先発登板のチャンスが訪れる。年齢的に、ここで結果を残さなければクビも危うい。しかし初回。ラミレス(現横浜DeNA監督)にいきなり3ランを浴びた。

「もう、終わったな」

 マウンドで頭が真っ白になった。だが、そこで開き直り、実戦でほとんど使ったことのないツーシームを投げまくり、6回までスコアボードにゼロを並べた。2004年は結局、19試合に投げて防御率2.57。クビはつながった。

「僕の野球人生の転機でしたね」

 広島でユニフォームを2010年まで着ることができ、左ヒジ手術のリハビリで一軍登板がなかったシーズンもあったが12年間、充実したプロ野球人生を送った。

チームスタッフとして多くの経験を積んで


 現役時代から特別にセカンドキャリアを意識しているわけではなかったが、野球に携わりたい思いはあった。

「広島からありがたい話もいただいていましたが、私自身は埼玉出身で現役を終えたら関東に戻ろうと決めていました。テスト生からお世話になっていた広島には本当に感謝の気持ちでいっぱいでしたが丁重にお断りして“就職活動”。そしたら、西武に誘っていただきました」

 2011年に西武の打撃投手に転身。2012年11月には育成担当兼副寮長になり、2014年からファームディレクター補佐兼ファーム編集室長を2年務めた。2015年10月には球団本部チーム戦略ディレクターへ。18年からはチーム戦略室長を兼任するなど貴重な経験を積んできた。

 今年、西武は球団本部内の業務部と編成部を廃止して新たにチーム統括部を設置し、その下に『企画室』『チーム運営』『編成』『チーム戦略』『ファーム・育成』『メディカル・コンディショニング』と6つのグループを置く組織改正を行った。チームの運営機能と強化機能が混在していたチーム組織を、役割に応じて機能分離することで、これまで以上にスピード感を持って取り組み、チームのさらなる強化につなげていくことが目的だ。

チームをよりよくするために


 広池は今年から球団本部長補佐に加えて、「チーム戦略」「メディカル・コンディショニング」グループでディレクターとして日々の業務をこなしている。

「まず『メディカル・コンディショニング』グループを西武のストロングポイントにしたいと思っています。そのためにトレーニングコーチを『S&C(ストレングス&コンディショニング)』と肩書きを変え、トレーナーたちと同じグループにすることで、より連携を取れるようにしました」

 さらに、新しく始めたのが管理栄養士の導入だ。学校法人帝京大学と業務委託契約を締結。同大学からスポーツ医科学センターに所属する管理栄養士2人が球団に派遣され、栄養面を考慮した献立の監修、個々の選手に合わせた栄養指導などを本格的に実施している。

「ベテランに差し掛かった選手たちに、『1年でも長く野球人生を続けるには、西武にいたほうがいい』と思ってもらえるようにしたいですね」

『チーム戦略』グループでは現場からの進言もあり、今年から先乗りスコアラー3人制を敷いた。

「2人制のときは直近の試合を視察していた先乗りスコアラーの情報をチーム付スコアラーが受けて選手などに伝えていました。でも、3人制にして1人、チームに合流するようにしました。最新の情報を直接、見ていたスコアラーと選手たちが直にやり取りするシステムです。そのほうが、より効果的でしょう」

 多忙な日々だが、瞳を輝かせながら球場内外を動き回る広池からは少しでもいいチームにしたいという情熱があふれ出ている。

「私は“裏方”という言葉があまり好きではないんですよね。それよりも“スタッフ”。よりチームの一員として、それぞれが仕事にプライド、プロフェッショナル精神を持って、明るく、楽しく、元気よく働いてもらいたいです。そしたら絶対にいいチームになると思います」

 もちろん自己研鑽も欠かさない。

「僕自身、もっと野球を深く知りたいし、組織マネジメントの方法も学びたい。日々成長する姿を周囲に見せないといけません」

 全日空を飛び立ってから20年超、広池浩司の野球界でのフライトはまだまだ続いていく。

(文中敬称略)

文=小林光男 写真=BBM
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