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編集部員コラム「Every Day BASEBALL」

44歳まで現役を続けた上原浩治の3つの転機

 

大体大時代も、上原浩治は背番号「19」を着けた。東海大仰星高(大阪)から1年間の浪人生活を経て入学している


 上原浩治が44歳まで現役生活を続けられた理由とは――。

 原動力となっていた「雑草魂」だけで片づけることはできない。探求心。つまりは、引き出しの多さに尽きる。向上心を忘れず、なぜ、そこまで野球と向き合うことができたのか。

 3つの転機があった。寝屋川十中時代、上原は陸上部に所属している。野球部がなかったのだが、ここで投手として最も大切な下半身強化、基礎体力が養われたという。走り幅跳び、三段跳び、ハードル、短距離走……。ピッチャーとしての必要な俊敏性、そして持久力の素地が形成されたのだ。

 東海大仰星高(大阪)では2年秋まで外野手。3年時に投手に転向するが、エースには建山義紀(のち日本ハム)がいたため、控え投手。結果的に肩、ヒジを酷使することなく高校野球生活を終えた。これが、2つめのターニングポイントだ。

 ここで、最大の挫折が訪れる。保健体育科の教諭を目指すため大体大を志望したが不合格。浪人生活はつらく、厳しいものであったが、この19歳で過ごした1年が、のちの大きな糧となる。同級生から1年遅れて、大体大に入学。これが、野球人生の分岐点。大体大4年時、上原はこう回想していた。

「練習はランニングとウエートだけ。これからどないなんねんやろ、と悩む日々でした。でも今思うと、浪人生活はとても役に立っているんですよ。僕は予備校に通わずに一人で勉強し、練習した。自分であれこれ考えながら、ね。大学の練習もこれと同じで、サボろうと思えばいくらでもサボれる。けど、そういう雰囲気の中で自分に必要な練習はしなきゃならない。自分自身で考えることを、浪人時代に身につけたんです」

 大体大、逆指名で入団した巨人、メジャー・リーグを通じて背番号「19」を着けたのも、あの1年を忘れないため。プロで壁に当たっても、自身の背中を振り返ることにより、奮い立つことができたという。巨人に復帰した2018年は「11」を着けたが、同年限りで杉内俊哉が引退したことで、入団以来「19」だった菅野智之が「18」を引き継ぎ、令和元年「19」は上原が再び背負った。

 5月20日の引退会見で号泣した表情が、ものすごく印象に残っている。真っすぐに生きてきた上原らしかった。21年のプロ生活。人には言えなかった苦労が、その涙にあふれ出ていた。最後に「19」でユニフォームを脱ぐことができて、幸せであったに違いない。まだ、44歳。今後は球界の唯一無二の「伝道師」として、次世代へと発信してほしい。すべての言葉が「生きる力」となるはずだ。

文=岡本朋祐 写真=BBM
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