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プロ野球1980年代の名選手

酒井勉 なぜ酷評された右腕は新人王に輝いたのか?/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

“低評価”との格闘はアマ時代から



 1980年代の締めくくりとなる89年は、オリックス元年でもあった。阪急の歴史が幕を下ろした衝撃の余韻も残る中、新人王に輝いて、チームの新たなる船出に花を添えたのがプロ1年目、26歳の酒井勉だった。即戦力右腕との期待を受けて日立製作所からドラフト1位でオリックスへ。会見では堂々と、

「10勝して新人王を狙う!」

 と宣言して、有言実行の快挙となったのだが、上田利治監督こそ「酒井と(ドラフト2位の)小川(博文)は開幕から戦力になる」と語っていたものの、キャンプでの評論家の声は厳しいものが多かった。

 ただ、こうした低評価はプロに入ってから始まったものではない。“一流”とされる人たちによる“低評価”との格闘はアマチュア時代から。のちに、同い年で前年のドラフト1位でもある伊藤敦規から「お前のスピードは、あんなものか」と言われたことで球速を136キロから142キロにアップさせるなど、ムキになりやすい性格。こうした“一流の酷評”に闘志を燃やし、跳ね返して、手に入れた栄冠でもあった。

 東海大では5番手投手だった。4年生の5月まではオーバースローで、公式戦では1勝のみ。だが、その四半世紀前の巨人でエースとして活躍し、80年代には監督として優勝、日本一にも導いた藤田元司から助言を受ける機会があった。「君の腰は横の回転だから、スリークオーターに変えたほうがいい」。この一言で、ようやく才能が芽吹き始める。

 日立製作所では、すぐにエースとなった。2年目には15勝。だが、プロのスカウトからは「スリークオーターで左打者に弱い」と評価される。実際、左打者は苦手にしていたのだが、そこから独学で3種類のフォークを習得。3年目は18勝を挙げて、左打者からの被打率も2割に抑え込んだ。そしてドラフト1位でオリックスへ。そこで見舞われたのが「フォームに威圧感がない」「球が速くない」などの評論家の声だった。

 確かに、身長181センチとプロ野球選手としては大柄とは言えず、そこから独特の変則モーションで投げることもあり、威圧感というフォームではない。球も速くないのだが、腕が遅れて出てくるため、球の出どころが見えにくく、打者は振り遅れた。フォークだけでなく、カーブやシュートといった多彩な変化球もある。それでも、プロで見えてきた課題をキャンプで次々に克服。そして、オリックス最初のシーズンが開幕すると、その才能が満開の花を咲かせる。

パ・リーグ初の初登板無四球完投勝利


 4月13日のロッテ戦(川崎)の先発マウンドが一軍デビューの舞台だった。2点を失うも、安定した制球力で無四球、11奪三振の完投勝利。初先発初完投勝利はパ・リーグ18人目、初先発初“無四球”完投勝利は初の快挙だった。2度目の先発となった21日の西武戦(西宮)でも完投勝利、5月から6月にかけては3連勝。8月11日の西武戦(西武)では自責点1で2度目の無四球完投も敗戦投手となる不運もあったが、27日のロッテ戦(札幌円山)でクローザーに回ると、スターター志向が強かったにもかかわらずアジャストして、さらなる安定感で優勝争いを演じるチームを支え続けた。

 最終的には9勝9セーブ、リーグ9位の防御率3.61で、西武の渡辺智男に126票の差をつけての新人王。

「新人王宣言をバネに頑張った。光栄です!」

 と声を弾ませた。

「肩は消耗品。使ったら休ませる」

 が持論で、登板過多だった89年オフはノースロー調整。ただ、右太もも痛で走り込みができず、翌90年は「2年目のジンクス」と言われる結果に終わる。92年にキャリアハイの10勝、リーグ8位の防御率3.29をマークするも、次に襲ってきたのは病魔だった。足がしびれ、感覚がなくなる難病の胸椎黄色じん帯骨化症を罹患、手術を受けるも、完全復活はならず。94年からは一軍登板なく、96年オフに現役を引退した。プロでの活躍は短かったが、その波乱万丈の野球人生で得た経験は、指導者としての糧になっている。

写真=BBM
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