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プロ野球回顧録

堀内恒夫G助っ人回顧 監督時、コーチとして呼びたかったのは?

 

川上哲治監督のV9時代の巨人は外国人選手不在だったが、長嶋茂雄監督が就任した1975年にジョンソンが入団。当時のエースとして、その後は兼任コーチ、専任コーチ、コーチ、監督として長年にわたり巨人のユニフォームを着た堀内恒夫氏に、「海を渡ってきたチームメートたち」について思い出を振り返ってもらった。

「苦手だったシピンが移籍してきたのは、うれしかったね」


大洋から移籍したシピンは巨人に入団してヒゲを剃ってしまった


 1978年には、大洋から「ライオン丸」の異名を取るジョン・シピンが、巨人に移籍して来た。堀内にとって、シピンは散々打ち込まれた苦手中の苦手。その天敵が味方になったのだ。

「巨人に来てくれて、ああ、うれしいと思った。トレード・マークのヒゲを剃って怖くなくなった、というよりも、対戦しなくなったのが良かった。逆にシピンはサイドスローの小川(邦和)さんが苦手だった。小川さんがカーブかシュートを投げると、どん詰まる。シピンは小川さんを見るのも嫌だったんじゃないかな。俺も一度、川崎球場の大洋戦でシピンに対して横からカーブを投げたことがある。でも、ものの見事に打たれましたよ(笑)」

 シピンの加入から2年後の80年には、名門ヤンキースの主力選手だったロイ・ホワイトが来日した。スイッチヒッターのホワイトは1年目に128試合、打率.284、29本塁打、75打点の数字を叩き出し、メジャーの本領を発揮する。ホワイトはヤンキース時代に左翼手だった。当時ヤンキー・スタジアムの左中間は「デスバレー」と呼ばれるほど、広々とした面積を誇っていた。そのため、ヤンキースで左翼を守る外野手は肩よりも、脚力を必要とした。

「確かにうまかったね。捕ることに関しては。でも、すでに肩が壊れていた。ホワイトは人間的にも素晴らしかったよ。ライトにみたいにクレージーになることはなかったからね」

「レジーは人間的にも良かった」


メジャー通算314本塁打をマークしていたスミス


 次に堀内の口から出てきたのは、83年、監督・藤田元司の下、来日したレジー・スミスの名前だった。この2年前から、堀内は投手兼任コーチの肩書が付き、指導者としての第一歩を印している。

 レジーは、ホワイトと同じスイッチヒッター。ドジャース、ジャイアンツなどに在籍し、メジャー通算2020安打と314本塁打を誇る大物だった。

「彼も人間的には良かった。打撃論も素晴らしかった。練習も好きだった。でも、日本に来たときには、肩が壊れていたし、足も衰えていた。だから、巨人が取ってくる外国人は総じてダメ外国人。良いと思っていても、名前だけだったね。

 レジーは俺が監督になったら、コーチとして呼ぶつもりだった。またレジーが、向こうで監督になったら、俺をコーチとして呼ぶって話だったけど、結局ダメだったね。レジーは向こうで監督にならなかったし、俺が巨人の監督になったとき(04〜05年)、レジーを呼びたかったんだけど、彼の奥さんが体調を崩していて、来日できなかった。レジーは日本が好きだっただけに残念だったね」

写真=BBM
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