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プロ野球1980年代の名選手

金沢次男 荒れ球と、もろさが独特の魅力となった右腕/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

26回1/3無失点のデビューも……


大洋・金沢次男


 1980年代の大洋といえば、オープン戦や序盤は絶好調なのに、あれよ、あれよといううちに“定位置”で安定した低空飛行をしている、という印象が強い。実際には最初から“定位置”に沈み、微妙な浮き沈みを繰り返しただけでシーズンを終えていることも少なくないのだが、ファンからしてみれば、春に「もしかしたら今年こそは……」と夢を見て、秋(早ければ夏)に「やっぱり夢だったんだね」と我に返るまでの落差が、それだけ強烈だったのだろう。

 特に80年代の前半、そんな大洋を象徴していたのは、長身右腕の金沢次男ではないだろうか。もちろん、1人の力だけで大洋が快進撃の末に失速したわけではないだろう。ただ、在籍した4年間で、その個人成績と大洋の順位は、ある程度の相関関係があるようには見える。そして、荒れ球も武器にした投球スタイルも、もろさも独特の魅力となっていた当時の大洋と似ていた。

 社会人の三菱自動車川崎からドラフト5位で82年に大洋へ。社会人では、なぜか“イカ太郎”と呼ばれていたというが、大洋では前歯の銀歯が目立つことから、関根潤三監督に“銀次”と呼ばれ、それが定着。下位指名ながら開幕から即戦力としても定着して、開幕第2戦となった4月4日の阪神戦(横浜)でデビューして、1イニングを無失点に抑える。翌5日の巨人戦(横浜)は3イニングを無失点、11日の広島戦(広島市民)では2イニング無失点でプロ初勝利、17日のヤクルト戦では8イニングのロングリリーフを被安打1の無失点で切り抜けて2連勝。4月は防御率0.00で終えて、その時点での規定投球回にも到達、もちろん防御率のリーグトップだ。

 デビューから26回1/3を無失点で“ミスター・ゼロ”とも言われたが、5月までは無傷の5勝も、肩痛で離脱。9月に復帰すると4連敗で、最終的には5勝4敗に。ちなみに大洋は5月まではAクラスで首位も射程圏にとらえていたが、7月からは不動のBクラスとなり、5位で閉幕している。

 翌83年は9月を除いて珍しく(?)コンスタントに白星を積み重ね、初の2ケタ10勝。大洋は9月までBクラスをウロウロするばかりのシーズンだったが、中日をAクラスから追い落とし、阪神の猛追をかわした10月だけで2勝を挙げて、大洋の80年代では唯一のAクラス入りに貢献している。続く84年は2年連続10勝。5月までに7勝を挙げて、最多勝も争う勢いだったが、そこから急失速した。大洋も5月まではAクラスへの希望を残していたが、6月からは5位を、9月を迎える頃には最下位を独走している。

 だが、その翌85年は新たに就任した近藤貞雄監督と合わず、3勝に終わってオフに日本ハムへ。そして迎えた新天地1年目の86年がキャリアハイとなる。

日本ハムでは制球力が一気に改善


 大洋では荒れ球も持ち味だったが、日本ハムではキャリア初を含むリーグ最多の無四球完投4試合と制球力が一気に改善。リーグ9位の防御率3.79に加え、10勝9敗と勝ち越したのも規定投球回に到達したシーズンでは初めてだった。だが、89年に就任したのが大洋で因縁のあった近藤監督。先発を外され、オフにヤクルトへ移籍となる。

 日本ハムでは口ヒゲがトレードマークに。顔に吹き出物ができたときに始めたものだったが、そのまま継続。気弱に見られないためでもあったという。ヤクルトではヒゲが禁止され、メガネをかけるように。サイドスローにも転向して、野村克也監督から「おとなしい顔をしているが肚は座っている」と評価されて、移籍1年目は6勝5セーブ。自宅の近くで痴漢を捕まえた逸話もあった92年には、事件後すぐに先発で起用されて約2年ぶりに勝利投手となったこともある。

 最後はロッテで1年だけプレーして引退。ジョーク好きで、4チームすべてで人気者になった好漢だった。引退後はゴルフのレッスンプロに、中学で始め、社会人時代には練習場にいるとプロと間違えられるほどの腕前になっていたという。

写真=BBM
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