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プロ野球1980年代の名選手

園川一美 低迷するロッテのスターターとして投げまくった左腕/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

88年“10.19”が名勝負になった理由?



「どうせ敵役ですから」

 こう言って、1988年、近鉄が連勝すればリーグ優勝となる最終戦、最下位のロッテとのダブルヘッダー“10.19”の第2戦(川崎)で、本拠地のマウンドに立ったのがロッテの園川一美だ。日本中が近鉄の逆転優勝を期待しているかのような雰囲気の中、第1戦に勝って勢いに乗る近鉄の前に立ちはだかると、5回まで無失点に抑える。だが、そこから8回の途中まで4失点。優勝に懸ける近鉄の勢いが勝ったともいえるが、一方で、この良くも悪くも安定感に欠けた左腕らしい展開でもあった。

 この88年は“10.19”の時点で、すでに10勝を挙げていたが、前年には13安打、4本塁打を許して13失点ながら完投で敗戦投手となる珍記録も保持している。とにかく、よく打たれた。だが、ここから負けじと三振を奪い返す。よく負けもしたが、見事な完封劇も少なくなかった。特に90年代に入ってからは、勝ち星のうち完封が占める割合は高い。荒れ気味の直球と大きなカーブをウイニングショットに、常に真っ向勝負を繰り広げた本格派左腕だ。

 なお、この“10.19”の第2戦、もしも近鉄が簡単に勝っていたら、逆に序盤から大敗ムードだったら、ここまで伝説の名勝負にはならなかっただろう。この左腕が前半を抑えたこと、そして後半に“らしく”打たれたことが、見事なスパイスとして機能したといえそうだ。

 日体大では2年生の春にゲーム19奪三振の新記録。その秋にはノーヒットノーランを達成、4年生となると日米大学選手権でMVPに選ばれるなど、大学時代から剛腕ぶりを発揮していた。そして85年秋のドラフトでロッテから2位で指名される。だが、1位が高校生の石田雅彦だと知って入団拒否。それでも説得されて入団すると、2年目には先発ローテーションの一角を確保する。

 ハイライトとなったのが3年目、88年だ。4月に無傷の2勝を挙げると、その後も毎月コンスタントに勝ち星を積み上げていく。キャリアを通して左打者には分があったが、この88年は特に日本ハムの左打者に対しては顕著で、島田誠を16打数1安打の打率.063、イースラーからは20打数で6三振を奪った。最終的にはキャリア唯一となる2ケタ勝利をクリアしたものの、リーグ最多の15敗で2年連続の負け越し。防御率4.34も、規定投球回に到達した25人のうち21位だ。その後も負け越しが続く。それでも、低迷するロッテのスターターとして投げまくった。

89年は奪三振率トップ&防御率ワースト


 89年は7勝1セーブも、12敗。93年に2度目のリーグ最多となる15敗を喫するまで、負け越しは7年連続となった。90年代に入っても、負けても真っ向勝負という本格派のスタイルもさることながら、“敵役”ぶりも健在。91年には5月19日の近鉄戦(秋田八橋)で9回二死二、三塁からトレーバーに死球を与えて右翼まで追いかけ回されて暴行された。

 初の勝ち越しとなった94年にはプロ野球で初めてシーズン200安打に迫っていたオリックスイチローに、その200本目を許す。96年には3月30日のダイエーとの開幕戦(千葉マリン)で開幕投手に抜擢されるも、“本命”伊良部秀輝を差し置いての開幕投手に、ダイエーの王貞治監督が読みを外された悔しさも手伝ってか「ナメられた。開幕投手には格というものがあるだろう」と発言。それでも淡々と投げて4回まで無失点に抑えた。あと1人で勝利投手というところで交代したため勝ち星はつかなかったが、そのまま96年は初のゼロ勝に終わる。98年が2度目の勝ち越し。翌99年も33試合に登板したが、オフにユニフォームを脱いだ。

 通算でも76勝115敗と大きく負け越したが、現役生活を通じて高い奪三振率を誇る。特に近鉄のブライアントからは打数の1/3近くで三振を奪った。89年の奪三振率8.15は規定投球回に到達した投手ではリーグ最高だが、防御率6.10はリーグ最下位。これもまた、この男らしい記録といえそうだ。

写真=BBM
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