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プロ野球1980年代の名選手

加藤伸一 シュートを武器にした“ガラスの鉄腕”/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

“投手代表”の理由はイケメンだから?


南海・加藤伸一


 近年のように投手の休養が重視される時代ではない。古くはチームのエースともなれば連投は当たり前。酷使されれば故障とは無縁ではない。故障で離脱することが多ければ“ガラス”と言われた。一方で、故障もなく、あるいは故障があっても酷使に耐えて投げ抜いた投手や、長い現役生活を投げ続けた投手の称号は“鉄腕”だ。“ガラス”と“鉄腕”。この両者は、基本的には対極に存在するものだろう。

“ガラスの鉄腕”――。そんな矛盾した形容が誰よりも似合うのは、1980年代は南海、ダイエーで過ごした加藤伸一だ。肩やヒジの故障を繰り返した“ガラスの右腕”。一方で、たび重なる故障を乗り越えて21年間もの長きにわたる現役生活を送った“鉄腕”でもある。

 鳥取の倉吉高では、

「元気が良すぎて(笑)」

 チームが2度の対外試合禁止に。公式戦は2年生の夏に投げた2試合だけだったが、それでもスカウトの目に留まって、ドラフト1位で84年に南海へ入団した。経験の乏しい高卒ルーキーながら1年目から即戦力となり、33試合に登板して5勝4セーブ。規定投球回未満ながら防御率2.76の安定感を発揮する。2年目の85年には9勝1セーブ。西武の渡辺久信日本ハム津野浩らと“19歳トリオ”と呼ばれて人気を集め、3人そろって球宴にも出場している。

 投球はオーソドックスで、典型的ともいえる本格派のフォーム。体の開きが早いタイプだったが、それを逆に利用してシュートをウイニングショットに。基礎を築いたのは河村久文(英文)コーチだった。現役時代はシュートを武器に西鉄を初優勝に導いた強心臓右腕。その直伝のシュートと強心臓で、打者の内角を鋭く突いた。だが、低迷する南海にあって、2年目から南海ラストイヤーでもある88年までは4年連続で負け越しが続く。役割も先発、リリーフと一定しなかった。

 そんな南海時代のハイライトは、86年8月14日のロッテ戦(大阪)だろう。8回表一死まで完全試合ペースの好投。だが、そこから山本功児に初安打、9回表にはリーに2ラン本塁打を許した。最終的には3対2の辛勝。これも当時の南海らしいといえるだろう。

 そして88年オフ、南海はダイエーとなり、本拠地も大阪から福岡へ。投手の代表として、野手の佐々木誠とともに、新ユニフォーム発表のモデルを務めている。代表選考(?)の理由は、今風にいえば「イケメンだから」といったところか。確かに88年は規定投球回にも到達して8勝を挙げていたが、実力だけで“代表”を勝ち取ったとは言い切れない。だが、迎えた89年、実力でも投手陣の“代表”となっていくことになる。

ダイエー初勝利で名実とも“投手代表”に


 89年の開幕第3戦となった4月10日の日本ハム戦(東京ドーム)でダイエー球団の初勝利を挙げると、不振に苦しむ山内孝徳に代わってエース格の働きを見せる。チームの低迷は南海時代と変わらなかったが、コンスタントに勝ち星を積み上げて、チーム最多の12勝を挙げた。勝ち越しもルーキーイヤーに続く5年ぶり2度目。防御率3.67はリーグ11位だったが、チームではトップだった。

 だが、翌90年に右肩を痛め、92年に手術。一軍のマウンドに戻ってきたのは94年だった。復帰後5試合目の登板となった5月18日の近鉄戦(日生)、6回3失点で998日ぶりの勝利。戦力外で96年に広島へ移籍すると、1年目からシュートが冴え、9勝を挙げてカムバック賞に。自由契約の末に移籍したオリックス1年目の99年にはリーグ最多の3完封を含む6勝。3年目の2001年には古巣のダイエーをカモにして8年ぶり2ケタとなる11勝を挙げた。

 4球団目の近鉄へはFA宣言で02年に移籍。オリックスとの合併が決まっていた近鉄の本拠地最終戦、9月24日の西武戦(大阪ドーム)が現役最後のマウンドとなった。現役生活21年で4球団、いずれも低迷期に在籍したため、優勝の経験がないのも、この男らしい。

写真=BBM
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