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谷繁元信コラム

門限突破で“正面突破”も!? わが青春の寮生活/谷繁元信コラム

 

『ベースボールマガジン』で連載している谷繁元信氏のコラム「仮面の告白」。ネット裏からの視点を通して、プロ野球の魅力を広く深く伝えている同氏だが、今回は「わが青春の『清風寮』」。大洋に入団した当初の寮生活を振り返った。

鉄柵でズボンがズタズタに


1989年、プロ1年目の谷繁氏


 今年、僕にとっての古巣である横浜DeNAベイスターズは創設70周年を迎えました。3月10日は、原点の地である下関で記念のオープン戦を行う予定だったのが、雨で中止になったようですね。

 下関といえば、プロ1年目の1989年3月、巨人とのオープン戦で、僕は斎藤雅樹さんから初ホームランを打っているんです。そのとき、大洋漁業からホームラン賞として15万円が出たそうなんですけど、まったく覚えていません(笑)。

 いまでこそ下関ではあまり試合が組まれなくなりましたけど、球団発祥の地だけあって、僕らの時代には毎年のように行っていました。

 この下関遠征が楽しみでね。なぜかといえば宿舎でフグを出してくれるんです。フグ刺しが敷き詰められた大きな皿が、一人に一皿。結構な量ですよ。それを箸で豪快にすくい取って食べていました。

 さて、僕は88年秋のドラフト1位で指名されて大洋に入団後、横須賀市長浦町にある合宿所、清風寮(現在は青星寮)に入りました。

 当時の規則では高校出が4年、大学出2年、社会人出は1年、入寮することになっていました。ただ、社会人でも妻帯者は免除です。

 僕は江の川高(現・石見智翠館高)時代も寮生活を経験していたんですけど、天と地の違いがありました。高校時代は2人部屋だったのが一人で部屋を独占でき、食事もおいしい。食堂にはカレーが24時間置いてありました。いま横浜スタジアムで「青星寮カレー」として販売されている、あのカレーです。大きめの炊飯ジャーに入ったご飯とカレーを、おなかがすいたら食べていました。当時の親会社は大洋漁業でしたけど、魚料理中心というより、栄養のバランスを考えたメニューを料理人さんがつくってくれました。全般的に、おいしかったですよ。

 寮長は、三浦健児さんという方で、大洋漁業に長年勤務され、ホエールズの応援団長も経験された方です。この方がご夫婦で合宿所を切り盛りしていました。

 僕は運よく1年目から一軍の試合に出ていたので、ナイターが終わって合宿所に帰ってくるのは夜遅い時間になるわけじゃないですか。そんなときでも三浦さんは寝ないで待っていて、温かいご飯を用意してくれた。外食してから帰る旨を連絡すれば、「気をつけて帰ってこいよ」と優しい言葉をかけてくれました。

 当時の僕は少々ヤンチャでしたので(笑)、門限を破ったことも、何回もあります。門限は深夜11時とか12時だったかな。一度、連絡をしないで門限を破ったことがあったんですね。その時間を過ぎると門が全部閉まるんですよ。自分の部屋に戻るためには、正面突破で玄関前の柵を乗り越えなければいけない。そこでよじ登っていたところ、ズボンを鉄柵にひっかけてビリビリに破けてしまったんです。翌朝、三浦さんに正直に報告したら、怒られるどころか「ケガはするなよ」と心配してくれた。そして「シゲ(僕のアダ名です)、今度から裏口を開けておくから、そっちから入ってこい」と言うとニヤリと笑いました。

アットホームな寮の雰囲気


文中に出てくる元寮長の三浦健児さん。あいにく雨で中止となったが、3月10日に下関で予定されていたDeNAのオープン戦にも姿を見せた


 三浦さんとの思い出は尽きません。

 寮の目の前にグラウンドがあるんですけど、練習日に、僕は寝坊したことがありました。前の晩にちょっと夜更かしして、練習時間の午前10時になっても、寝ていたんです。そのとき「シゲ、練習始まってるぞ!」と叩き起こしに来てくれたのも三浦さんでした。

 20歳を越えてから休みの前日に酒を飲んで帰ってきて、次の日は二日酔いで頭がフラフラというときもありました。ロビーのソファに寝転がって「頭、いてえ〜」とウンウン唸っていたら、三浦さんが冷たいおしぼりを僕の頭に乗せてくれて、看病までしてもらいました。

 昔の時代の寮長というと厳しいイメージを持つ読者の方もいるかもしれませんが、少なくとも僕のいたころにはそういうことはなかった。三浦さんは親しみがある方でしたよ。親代わりというか、いつも僕らの味方になってくれました。特に、僕のように地方から出てきた人間にとっては心強かったですね。え、三浦さんは「佐々木(佐々木主浩)や谷繁のように遊んでるヤツほど大成した」と言ってたんですか。ハハハ。

 とにかく三浦さんをはじめ、料理人さん、掃除のオバサンまで、みんな人のいい人だった。風呂場に入っていても、お構いなしに風呂掃除に来るし、僕がいたころの合宿所はすごくアットホームな雰囲気でした。

 そういう恵まれた環境だけに、もっと練習に打ち込まなければいけなかったんでしょうが、いまにして思うと、その4年間は合宿所ではそんなに練習していなかった。一軍にいたので、午前中に少し打ってから横浜スタジアムに行くということはしていましたけど。

修学旅行の延長のようなノリ


 当時の仲間とのエピソードも書きましょう。1年早く盛田幸妃さん、野村弘樹さんが入っていて、1年後には佐々木さんが加わるんですけど、同級生が多かった。僕が指名された88年のドラフトでは高校生が石井琢朗など6、7人。お互いの部屋を行き来したりしていました。佐々木さんが入ってきた後にはトランプに興じたり、音楽をガンガンに鳴らすなど、みんなで愉快に過ごしていました。いま振り返ると、高校の修学旅行の延長のようなノリでしたね。

 ただ、高校の寮生活とはまるで違います。高校時代の寮というのは、何もかも禁止されていたわけじゃないですか。消灯時間になれば強制的に電気が消えて騒ぐこともできない。そう考えると、プロの寮生活は天国のようでしたね。

 合宿所が横須賀にあった関係で、足が必要です。ところが、高校出は、車を持てるのが3年目からなんです。社会人から入った人は1年目から車を持てたので、その人に乗せてもらって、寮と横浜スタジアムとの往復をしていました。3人ぐらいでタクシーを乗り合わせて“通勤”したこともあった。昔は経費を結構使っていましたね。バブルの名残があって羽振りがよかった。これがプロだなと思いました。

 僕は高校卒業前後に免許を取ったんですけど、マイカーを持てるようになってから最初に買ったのが、銀のフェアレディZ。中古のポンコツでしたけど、車で横浜横須賀道路をすっ飛ばしていたのも、いまとなっては青春のいい思い出ですね。

 このように、のびのびした雰囲気が、少なくとも僕らがいた時代までのベイスターズにはありましたね。これは伝統的にチームに受け継がれてきた空気でしょうし、98年の38年ぶりの優勝も、そうしたチームカラーが権藤(権藤博)監督の手綱さばきによって、引き出された結果だとも思っています。

写真=BBM

●谷繁元信(たにしげ・もとのぶ)
1970年生まれ。江の川高校(現・石見智翠館)にて甲子園に出場し、卒業後、ドラフト1位で横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。98年にはベストナイン、ゴールデングラブ賞、最優秀バッテリー賞を獲得しチームの日本一に大きく貢献。2002年に中日ドラゴンズに移籍。2006年WBC日本代表に選出され、2013年2000本安打を達成。2014年シーズンから選手兼監督になり、2016年現役引退を表明。通算3021試合出場、27シーズン連続安打、同本塁打を達成(いずれもNPB歴代最高)。2016年に中日ドラゴンズを退任後は、各種メディアで評論家、解説者として活動を行う。著書に『谷繁流キャッチャー思考』(日本文芸社)。
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