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プロ野球1980年代の名選手

吉井理人 不敗神話もあった88年に大ブレークした右腕/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

“10.19”でもマウンドへ


近鉄・吉井理人


「マウンドでは緊張したことがない」

 こう言い切るのは、近鉄5年目の1988年に大ブレークを遂げた吉井理人だ。少年時代には、小学校、中学校、高校と全部が一緒だったという西武の東尾修にあこがれた。まさに大先輩。その投球は“ケンカ投法”と言われ、やはり強心臓で鳴らした右腕だ。箕島高でも東尾と同様にエースとなり、2年のセンバツ、3年の夏と、2度の甲子園出場を果たしている。

 2年のセンバツではベスト8。3年の夏には1回戦で吉田高を相手に延長13回を投げ抜き、2回戦も駒大岩見沢高に完投勝利、3回戦では高知商の津野浩(のち日本ハム)に満塁本塁打を浴びるなど打ち込まれて敗退したが、それでも投球内容を評価されて、ドラフト2位で84年に近鉄へ入団した。

 だが、1年目は一軍登板なし、2年目は2試合の登板で防御率21.00、3年目も2試合で防御率23.14を記録。のちにメジャーでも結果を残した右腕だったが、まだまだ伸び悩んでいた。大きな自信をつかんだのが4年目、10月13日の日本ハム戦(後楽園)。初先発勝利を完投で飾り、5年目の大ブレークにつなげた。

 翌88年はリリーバーとしてスタート。4月10日の阪急戦(西宮)では同点の7回裏二死一、二塁のピンチで4番手としてリリーフに立ち、ブーマーを投ゴロに打ち取ると、その後も粘り強い投球を続ける。試合は延長戦に突入。10回表に代打の尾上旭が適時打を放ち、その裏を抑えてシーズン初勝利を挙げた。

 その後も打線の援護を待つ展開で信頼を勝ち取り、27日のロッテ戦(川崎)ではプロ初セーブも記録して、4月だけで8試合に登板して無傷の4勝2セーブ、月間防御率0.00。つまり、無失点だ。「吉井が投げれば負けない」という不敗神話まで生まれた。5月6日の阪急戦(藤井寺)でシーズン初失点も、27日、4月29日の日本ハム戦(東京ドーム)に続く3連続セーブ。初めて敗戦投手となったのが5月31日のロッテ戦(川崎)で、次が9月4日の阪急戦(藤井寺)だ。最終的には10勝2敗24セーブ、34セーブポイントで最優秀救援投手に輝いた。

 88年の近鉄で、ファンの記憶に最も残るのは、2連勝で優勝が決まるロッテとの最終戦ダブルヘッダー(川崎)、いわゆる“10.19”だろう。その伝説の2試合ともにリリーフで登板。第1試合は近鉄が同点に追いついて迎えた8回裏からマウンドに立ち、9回裏にマウンドを阿波野秀幸に譲るまで被安打1、無失点で切り抜けて勝利投手になっている。

その後も戦う姿勢を貫いて


 マウンドではポーカーフェースだが、闘志あふれる投球が最大の武器。その闘志はマウンドにとどまらず、不本意な投球の後にはベンチ裏でも炸裂、ロッカーを投げ飛ばすなど大暴れすることも少なくなかった。かなりコワモテの仰木彬監督が相手でも容赦なし。翌89年は5勝20セーブで近鉄のリベンジを支えたが、91年には敬遠の指示にキレて、思い切り投げて右ヒジじん帯損傷。94年に就任した鈴木啓示監督とも衝突した。

 翌95年の開幕直前にトレードでヤクルトへ移籍。先発に回って3年連続2ケタ勝利、近鉄時代のチームメートだった野茂英雄の直伝フォークで奪三振も急増したが、打ち込まれた後は変わらずベンチで大暴れ。その音に驚いて天井に頭をぶつけた野村克也監督から「俺を殺す気か?」と言われたこともあったという。

 日本一イヤーの97年はマウンドでレーザー光線を目に当てられる事件もあったが、オフにFAでメッツへ。ロッキーズ、エクスポズの3球団で通算32勝を残した。2003年にオリックスで日本球界へ復帰。3試合の登板に終わった04年オフに戦力外となるも、ここで球界再編問題が起こり、近鉄と合併してオリックス・バファローズとなったチームの新監督となった仰木の希望で残留、翌05年は開幕6連勝で期待に応えている。

 07年シーズン途中にロッテへ移籍して、オフにユニフォームを脱いだ。日米通算24年。強心臓とタフさを兼ね備えた右腕だった。

写真=BBM
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