週刊ベースボールONLINE

平成助っ人賛歌

「クロマティの後継者」を期待された不運の“二刀流助っ人”ブラッドリーとは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

異色の経歴の持ち主


新四番候補として来日したブラッドリー


 それは鮮やかな世代交代だった。

 1990年(平成2年)11月21日、任天堂からファミリーコンピューターの後継機であるスーパーファミコンが発売され、『スーパーマリオワールド』や『F-ZERO』の映像の鮮明さや拡大縮小機能の最新技術に子どもたちは驚愕する。直後にはいったい誰が買ったのか謎だがSHARPから10万円以上するスーファミ内蔵テレビも登場。夢の次世代マシーン、スーファミは平成という新しい時代の象徴でもあった。同じころ、プロ野球界では巨人も世代交代を迫られていた。84年から90年まで7シーズン、チームの中心で活躍したウォーレン・クロマティがついに退団。人気・実力ともに球団史上最高と称された助っ人の代役に注目が集まる中、白羽の矢が立ったのがフィル・ブラッドリーである。

 メジャーでの成績は1022試合、1058安打、78本塁打、376打点、打率.286。マリナーズ時代の85年にはシーズン192安打、打率3割ジャスト、26本塁打に22盗塁と恐怖の核弾頭として君臨。同年はオールスターにも出場、ベストナインにも選出される。シアトルの名一番打者と言えば、左のイチローと右のブラッドリーの名前が挙がるほどだ。

 59年生まれのブラッドリーは、異色の経歴の持ち主でもあった。ミズーリ大時代はアメリカンフットボールのクォーターバックで鳴らし、1981年1月に横浜スタジアムで行われた第6回ジャパンボウルにも全米学生選抜の一員として来日(週刊ベースボールではこの様子を「10年前のもうひとつの顔」と巻頭カラーグラビアで独占公開している)。これまでも日米野球や日米大学野球での来日経験のある助っ人は何人もいたが、野球以外のスポーツで日本の地を踏んだ男は初めてだろう。バリバリの二刀流選手はアメフトのドラフト指名を持っていたが、最終的に声が掛かったのは野球のマリナーズ。人生、先のことは分からない。10年後の1991年(平成3年)、今度はアメリカンフットボールではなく、ベースボールプレーヤーとして東京に降り立った。

 90年はオリオールズとホワイトソックスで117試合、打率.256、4本塁打、31打点、17盗塁の成績に終わるも、巨人とは看板スター・原辰徳の9400万円を大きく上回る年俸200万ドル(約2億7000万円)の大型契約。なぜ、32歳の働き盛りの名外野手は日本球界に来たのか? 実はブラッドリーは前年の6月と10月に左手首の軟骨摘出手術を受けている。巨人の他にもNPB数球団が調査していたが左手首への不安材料から降りたという。

 セシル・フィルダー(元阪神)やビル・ガリクソン(元巨人)のように、日本球界できっかけをつかみメジャー復帰した選手も珍しくなくなった90年代初頭。いわば故障明けのリハビリを兼ねた日本経由メジャー帰りを狙っての期間限定来日である。それでも、大リーグ通算78アーチ中51本が中堅より右へ放ったシュアな打撃に“ミスター・ヒットエンドラン”と呼ばれた野球偏差値の高さは大いに期待され、「クロマティの代役」「新四番候補」と高い前評判でブラッドリーはチームに合流する。

隠せなくなったイラつき


好打を披露しても感情を露わにすることは少なかった


「何人かいた候補の中で、これぞ取ってほしい選手だったわけだからね。ようやく恋人に会えた気分だよ」なんてリーグV3を狙う藤田元司監督もべた惚れ。前年の日本シリーズで屈辱の4連敗を喫した“打倒・西武”への切り札として、中日との開幕戦に「三番・中堅」で先発出場した新背番号2は、なんと来日初打席初本塁打の鮮烈デビューを飾る。4月後半には第55代四番打者も経験し、『週刊ベースボール』91年5月27日号ではブラッドリーの独占インタビューが掲載されている。

「必ずしも、巨人というのはなかったし、“サダハル・オー”しか知らなかったしね」

「まだ、日本に来て3カ月が過ぎただけだから。原とか篠塚といったリーダーがいるし、ジャイアンツに対してどうこう言える立場でもない」

「アメリカとの大きな違いとして目につくのは、ゲーム前の練習を1時間15分もすごくビッチリやることだね。ゲーム内容そのものからいうと、むこうは個人プレーに任されるところが、こっちではチームのサインプレーが基本になっていることでしょうね」

 かてぇ……じゃなくていたって真面目だ。そう、外国人選手にしては珍しくノーマルな受け答えに終始するブラッドリーは、藤田監督が“修行僧”と名付けるほどもの静かな雰囲気と鋭い眼光に髭面がトレードマーク。このころから「試合前のミーティングにも全然出てこない。性格が暗すぎる」という報道が出てくるようになる。オレは野球をやりにきたんだぜ。そりゃあ派手なパフォーマンスで人気だったクロマティと比較されたらたまったもんじゃない。やがてブラッドリー自身もイラつきを隠せなくなる。

 7月11日、札幌での広島戦では連続セーブ記録を更新中の大野豊から逆転のサヨナラ3ランを叩き込むも、無表情でダイヤモンドを一周し、チームメートからの祝福もスルー。ヒーローインタビューも拒否して荷物をまとめて帰りのバスへ一直線(のちに本人は「打順が七番に下げられて自分に腹が立っていた」と明かしている)。7月16日には大洋の中山裕章から左腕に死球を受けると、ブチギレて猛然とマウンドに突進。オールスター休みには左手の診察を理由に一時帰国へ。

カナダ紙でぶちまけた不満


打率.282、21本塁打、70打点とそこそこの成績を残したが……


 こうなると悪循環だ。夏にカナダの『トロント・スター』紙で「大リーガー、バンザイ野球にカルチャーショック」と題した記事が掲載されてしまう。「日本野球には“休む”という言葉がない」「三振の半分は見逃しだ。ホームベースでワンバンしたままストライクと言われたこともある」「もう日本野球に合わせるのはやめたよ」と映画『ミスター・ベースボール』ばりにぶちまけるブラッドリー。これに対して球団側も「不満を言える立場かどうか禅寺にでも行って、自分の胸に手を当てて考えるべきだ」なんつって応戦し、ブラッドリーの居場所はなくなっていく。

 後日、『週刊現代』の取材で「オレの解雇はあの事件で決まったようなもんなんだ。ジャイアンツは、オレを追い出す口実としてあの事件を利用したんだ」と吐き捨て、「オレはこの1年間、ずーっと『ホームラン、ホームラン』と言われ続けたよ。こっちがメジャーから来た選手というだけで、30〜40本のホームランを期待するんだ。でも、オレはもともとホームラン打者じゃない」なんて嘆いてみせるブラッドリーは、チームメートともほとんど交流することなく、わずか1シーズンで東京を去った。

 巨人での1年は121試合、打率.282、21本塁打、70打点、OPS.859。決して悪い成績ではないが、前任者が球団史上最高の助っ人にして人気者。“クロマティの後継者”としては数字面、キャラクター面の両方で物足りなさを感じてしまう不運はあった。そう、タイミングが悪かった。ツイてなかったのだ。

 巨人はこの反省を生かし、翌92年開幕直後にロイド・モスビーという陽気な外国人選手を獲得するが、それはまた少し先の話である。クロウの次を託された不運の男・ブラッドリーは今でも平成懐かし助っ人で名前が挙がるが、東京ドームのゲーム前には自身と同じ背番号2のユニフォームを着た長男・カーチス君と遊び、試合後は一緒に地下鉄に乗って帰宅する姿もたびたび目撃された家族を愛する一面があったことも付け加えておきたい。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング