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プロ野球回顧録

プロ野球黎明期を彩る303勝投手スタルヒン/時代と外国人1930〜50年代

 

日本のプロ野球に外国人登録枠が採用されたのは1952年から。だが、それ以前の黎明期から日系二世などの外国人はプレーしていた。時代とともに外国人枠、外国人選手の出身国、日本球界を取り巻く環境も変わってきた。それぞれの時代の中で外国人選手はどのような役割を果たしてきたのか。助っ人のトレンドを年代別に考察してみよう。

戦中の巨人の屋台骨を支えたスタルヒン


史上初の300勝を達成したスタルヒン


 黎明期から2リーグ分立2年目の1951年まで、プロ野球には外国人枠がなかった。

 戦前・戦中・戦後のプロ野球を彩ったのは通算303勝を挙げたヴィクトル・スタルヒン(巨人ほか)。帝政ロシアでロマノフ王朝の将校の家に生まれ、17年ロシア革命勃発のため祖国を逃れて北海道旭川に亡命。34年、大リーグ選抜を迎え撃った全日本チームに沢村栄治らとともに参加すると、プロ野球がスタートした36年には巨人(大日本東京野球倶楽部)入団。37年7月3日、イーグルス戦(洲崎)で沢村栄治(2度)に次ぐ史上3人目(のべ)のノーヒットノーランを達成。37年秋から4シーズン連続最多勝を獲得、39年には42勝の日本記録を作るなど、沢村が出兵した戦中の巨人の屋台骨を支えた。戦局が激しさを増す中で、戦時中は「須田博」に改名させられた上に「敵性国民」と見なされ、巨人を追放された。

 黎明期のプロ野球の外国人は、ハワイ移民の日系二世が大半を占めていた。通算237勝、2度のMVPに選ばれ阪神、毎日で監督も務めた若林忠志。若林に誘われて阪神入りし、捕手として優れたインサイドワークでチームを支えた「カイザー」こと田中義雄。38〜40年にイーグルス在籍、ノーヒットノーランの快挙を2度達成した亀田忠。各球団は人材不足を補うため、日系二世を“助っ人外国人”として起用した。

 米マイナー・リーグに在籍していたハリスは、36年名古屋に来日し、37年春から38年秋までイーグルスでプレー。6シーズン中5度の3割をマーク、38年春には16本塁打で本塁打王に輝くなど戦前の超優良外国人として高く評価された。

 巨人が39年1月にフィリピン遠征した際、マニラ税関チームの一塁手として注目され、同年巨人入りしたリベラは日本球界唯一のフィリピン人だ。

 サンフランシスコ講和条約によって日本が主権を回復したのが1953年とあって、日米間の野球の実力の差も、多くの日本人にとっての外国人に対する意識も、今とは想像がつかないほど違う時代だった。

本場仕込みのスライディングを“輸入”した与那嶺


与那嶺のアメフト仕込みのスライディングは日本球界にカルチャーショックを与えた


 戦後初の外国人選手は、51年に巨人入りした与那嶺要。ハワイ生まれハワイ育ちの日系人で、容貌や氏名が「和風」だったところが、受け入れる側も抵抗感が少なかったのだろう。アメリカンフットボールの選手でもあった与那嶺は本場仕込みの激しいスライディングや攻撃的なセーフティーバントなど、それまでの日本野球になかった概念を持ち込み、影響を与えた。

 53年には毎日に左腕カイリーが入団。51年にレッドソックスで7勝を挙げていた現役メジャー。日本球界入りしたメジャー経験者第1号でもあった。カイリーは当時兵役にあり、横須賀基地に配属されていた。軍を除隊させるわけにはいかないので、休日とナイトゲームだけ試合に来るという契約の「アルバイト投手」だった。それでも実力差は顕著で、6試合の登板で6勝0敗、防御率1.80と圧倒していた。

 同年には阪急にラリー・レインズが入団。ショートを守り、1年目から61盗塁で盗塁王。2年目は打率.337で「黒いハヤブサ」と呼ばれた。

 スタルヒンは戦後、パシフィック、太陽、大映などを渡り歩き、トンボ時代の55年、日本球界初の通算300勝を達成。通算記録を303勝まで伸ばして同年限りで引退した。

写真=BBM
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