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プロ野球回顧録

三冠王助っ人とアジアンパワーの台頭/時代と外国人1980年代

 

日本のプロ野球に外国人登録枠が採用されたのは1952年から。だが、それ以前の黎明期から日系二世などの外国人はプレーしていた。時代とともに外国人枠、外国人選手の出身国、日本球界を取り巻く環境も変わってきた。それぞれの時代の中で外国人選手はどのような役割を果たしてきたのか。助っ人のトレンドを年代別に考察してみよう。

史上最強の外国人打者


86年のオールスターで三冠王トリオがそろい踏み(左から落合博満ブーマー、バース


 この年代で最も結果を残したのはパ・リーグのブーマー(阪急)と、セ・リーグのバース(阪神)だろう。米国では一流ではなく主にマイナー・リーグ出身の両者だったが、ブーマーは84年に、バースは85、86年に三冠王となった。特に85年のバースは王貞治のシーズン記録(当時)に迫る54本塁打で阪神の21年ぶり優勝と日本一の中心打者として貢献。翌年もシーズン記録の打率.389を残し、「史上最強の外国人打者」として今も語り継がれるほどの強烈なインパクトを残した。それだけに、88年に息子が重病にかかり、その治療費の支払いを巡る契約の解釈の違いによって退団せざるを得なかったのは、本人にも球団にもファンにも不幸な出来事だった。

 84年に来日した巨人クロマティも主力打者として大成功し、風船ガムをふくらませる姿などで人気者に。89年に打率.378でMVPになった。

 87年にヤクルト入りしたホーナーは、前年にブレーブスで四番を任され28本塁打した「超一流」。メジャーでFA権を取得し、移籍を模索していたが、年俸相場が上がることを嫌ったオーナーたちが結束して、どの球団とも契約を結べなかった。そこで、1年間限定で日本に「出稼ぎ」に来たのがホーナー来日の理由だった。

 それまでも日本球界に有名メジャー・リーガーが来ることはあっても、29歳の現役四番の来日は初めてだった。ホーナーは5月5日から公式戦出場すると初打席本塁打、2試合目で3本塁打。ヤクルト戦には本物のメジャーの実力を見たさに大観衆が訪れた。シーズンが終わるとホーナーは93試合ながら31本塁打と大旋風を巻き起こし、幕末の「黒船襲来」以来の(?)インパクトを日本球界に残した。

「二郭一荘」の活躍


82年には先発ローテの一角、88年は守護神として中日の優勝に貢献した郭源治


 一方、84年のロス五輪で野球が公開競技として初めて採用されたのをきっかけに、日米以外の各国でも野球が発展したのもこの時期。韓国では82年からプロ野球がスタートし、もともとリトル・リーグのレベルが世界有数だった台湾は、好選手を輩出した。

 ロス五輪に台湾代表のエースとして出場した郭泰源は巨人との激しい争奪戦の末、85年に西武入り。同年にロッテ入りした荘勝雄と、81年から中日で活躍中だった郭源治の3人は「二郭一荘」と四字熟語のように呼ばれた。

 さらに、88年に巨人の3人目の外国人として巨人入りしていた呂明賜が、クロマティの骨折により一軍デビューすると初打席本塁打を含む9試合で7本塁打と大活躍。「夜のヒットスタジオ」に出演したとんねるずが七夕の短冊に「呂になりたい」と書くなど、こちらも前年のホーナーのような一種の社会現象となった。

 日本経済は「バブル」の時代。セ・リーグでバース、クロマティ、ホーナーと華やかな活躍を見せる選手がいた一方で、近鉄ではマネーが「球場が汚い」という理由で帰国、デービスが大麻所持で逮捕されたり、メジャーでの実績はすごかったが日本で活躍できなかったオグリビーという選手もいた(オグリビーは本塁打王経験者。首位打者経験のあるマドロックという選手もロッテにいた)。まとめると、マネーが途中帰国した代わりに獲得したのがデービスで、デービスがシーズン中に逮捕され代わりに中日から獲得したのがブライアントだった。

写真=BBM
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