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プロ野球1980年代の名選手

彦野利勝 ファンの記憶に残る破壊力を兼ね備えたリードオフマン/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

ハイライトはVイヤーの88年



 星野仙一監督就任2年目にしてリーグ優勝へと突き進んでいった中日。ただ、最終的には10月7日には優勝を決め、2位の巨人を12ゲーム差と突き放したものの、4月は投手陣の不調、四番打者の落合博満は例年にない絶不調で最下位に終わるなど、特に序盤は苦しい戦いを続けていた。そんな中日にあって、破壊力を兼ね備えたリードオフマンとして打線を牽引、優勝への起爆剤となったのが彦野利勝だ。敵チームのエースに強い思い切りの良い打撃とガッツあふれるプレーでファンの記憶に残る強打者の、長く伸び悩んだ末に迎えたハイライトだった。

 地元の愛知高では投手だったが、打球の鋭さを評価されて、ドラフト5位で野手として83年に中日へ入団。だが、1年目はマウンドへの思いが断ち切れず、積極的に打撃投手を買って出るなど、中途半端に過ごした。野手として勝負する覚悟が決まったのが2年目のキャンプ。山内一弘監督に「長打力よりも確実性」、中登志雄コーチには「人の3倍はバットを振れ」とアドバイスを受けるも、入団から2年連続で一軍出場はならなかった。

 一軍デビューは3年目。徐々に出場機会を増やすも、まだまだ伸び悩んでいた。転機は86年オフ。星野仙一監督の就任だ。プロ5年目にして初の開幕一軍を勝ち取ると、故障で出遅れた平野謙に代わって中堅に入り、そのまま101試合に出場。8月25日のヤクルト戦(ナゴヤ)で2本塁打、以降5日間で5本塁打の大爆発もあり、最終的には初の2ケタ11本塁打を残す。そのオフに平野はトレードで西武へ。迎えた6年目の88年、ついに中堅手としてレギュラーの座を確保した。

 打っては新人の立浪和義と一、二番でコンビを組み、打線を牽引した。最下位の阪神を除く全チームの主戦投手をカモにして、2位の巨人に対しては桑田真澄に打率.455、3位の広島には大野豊に打率.571。10月7日のヤクルト戦(ナゴヤ)では1回裏に先制の先頭打者本塁打、6回裏にもダメ押しのソロ本塁打を放って、リーグ優勝を呼び込んだ。軽く投げて100メートルという強肩を生かした中堅守備は最大の武器で、初めて外野のゴールデン・グラブにも選ばれている。

 西武との日本シリーズでも第3戦(西武)で工藤公康から先頭打者本塁打。工藤とは愛知高2年生時に夏の県大会決勝で対戦しており、このときも二塁打を放ったが、工藤のいた名古屋電気高に敗退。この日本シリーズでも、中日は西武に及ばず敗れ去っている。

サヨナラ本塁打の直後に悲劇が……


 翌89年がキャリアハイだ。初めて球宴にも出場し、第2戦(西宮)にはスタメン出場。3回表の第2打席で先制のソロ本塁打を放つと、8回表の第4打席では中前打で出塁し、勝ち越しの本塁を踏んだ。シーズンでは自己最多の26本塁打、59打点を記録して、ベストナイン、ゴールデン・グラブをダブル受賞。安打は広角に打ち分けたが、本塁打に関しては典型的なプルヒッターで、26本塁打のうち20本は左翼方向へと放り込んでいる。

 その翌90年まで3年連続ゴールデン・グラブ。続く91年は開幕から絶好調で、6月まで打率3割をキープした。18日の大洋戦(ナゴヤ)では延長10回裏、左翼席ぎりぎりに飛び込むサヨナラ本塁打を放ち、この時点で打率.320。その直後に悲劇が起きた。

 一塁を回ったところで転倒し、見方に背負わせて退場。代走の山口幸司が代わってダイヤモンドを一周したが、右ヒザじん帯の断裂で、そのままシーズンを棒に振った。それでも右ヒザに人工じん帯を入れて翌92年には復帰。代打打率.303を記録するなど、出場機会を徐々に取り戻していく。

 94年に右翼ながら再びレギュラーの座を確保し、自己最高の打率.284でカムバック賞にも選ばれたものの、その翌95年からは代打の切り札として存在感を放ち、97年は33打数で18打点を荒稼ぎするなど卓越した勝負強さを発揮。だが、中日ひと筋16年目となった翌98年オフ、ついにユニフォームを脱いだ。

写真=BBM
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